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3 夏目漱石 2

漱石の名作『三四郎』は、九州から上京した東京帝国大学の学生・小川三四郎(福岡の出身で熊本五高の卒業生という設定)が主人公。東大内にある池の畔付近で展開される次のような場面は、もっとも印象的なもののひとつだろう。

《ふと眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向う側が高い崖の木立で、その後ろが派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、凡(すべ)ての向うから横に光を透してくる。女はこの夕日に向いて立っていた》

《三四郎は女の落して行った花を拾った。そうして嗅いでみた。けれども別段の香(におい)もなかった。三四郎はこの花を池の中に投げ込んだ》

これが、三四郎と、三四郎の心を惑わすヒロイン美禰子(みねこ)との出会いのシーンなのである。

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東京大学の構内、ほぼ中央にある心字池が、物語の中で三四郎と美禰子の出会いの場となった。今は漱石の小説にちなんだ「三四郎池」の呼び名が、すっかり定着している。

物語の中では、三四郎が大学図書館に入り浸(びた)りになる場面も描かれる。

《三四郎は四十時間の講義をほとんど、半分に減して仕舞った。そうして図書館にはいった。広く、長く、天上が高く、左右に窓の沢山ある建物であった。(略)大きな箱入りの札目録を、こごんで一枚々々調べて行くと、いくら捲(めく)っても後から後から新しい本の名が出て来る。仕舞に肩が痛くなった。(略)驚いたのは、どんな本を借りても、きっと誰か一度は眼を通しているという事実を発見した時であった》

大学図書館の蔵書目録をめくっていくと、それだけで肩が痛くなるほど多くの本がある。それでいて、どんなに専門的でマニアックな本でも、借りてみると誰かが読んだ痕跡が残されている。先輩同胞のすさまじいまでの読書熱に、三四郎は驚嘆したのである。

漱石自身、図書館は好きでよく利用していた。英国留学を経て東京帝国大学の講師をつとめていた時期も、頻繁に出入りした。その際、漱石を苛立たせたのが、事務員のあたり憚(はば)からぬ声の高さだった。

図書館は静粛を保つべき場所。漱石は、

「もう少し静かにしてくれないか」

と注意した。ところが、若い図書館員らは、その場は聞いているようでも、すぐに逆戻り。一向に埒があかない。

漱石はついに、学長の坪井九馬三(つぼい・くめぞう)へあてて次のような申し入れの手紙を書いた。それが、今から113 年前の今日、つまり明治36年(1903)6月4日のことであった。

《大学図書館教職員閲覧室隣室の事務員ら高声にて談笑致し静読を妨(さまた)ぐること尠(すくな)からず候につき、小生自身に館員に面会の上相当の注意を乞ひ候えども一向取り合わざる様子に候間(そろあいだ)貴下より図書館長に御交渉の上、該館の静粛を保つよう御取計(おとりはからい)被下度(くだされたく)右手数ながら御配慮を煩(わずら)わし度(たく)と存候(ぞんじそうろう)》

しかし、のちに漱石の語るところでは、この手紙も余り効力を発揮しなかったようだ。

漱石の馴染んだ大学図書館は、その後、関東大震災で焼失した。予め申し込んでおけば、一般利用も可能な現在の東大総合図書館は、昭和の初めに復興されたものである。

■今日の漱石「心の言葉」
彼らは自分の自我をあくまで尊重するようなことをいいながら、他人の自我に至っては毫(ごう)も認めていないのです(『私の個人主義』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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