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2 夏目漱石

今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)6月3日、夏目漱石は東京・早稲田南町の自邸で昼食をとったあと、イギリス紳士並みに正装してステッキを持ち、曇天の中を麹町区(現・千代田区)富士見町へと出かけた。懐には1通の招待状を入れていた。

《来六月三日雅楽稽古所に於て音楽演習相催(あいもよおし)候間(そろあいだ)同日午後一時より御来聴(ごらいちょう)くだされたく候》

宮内省に勤務する門弟で俳人の松根東洋城(まつね・とうようじょう)から送られてきた、宮中関係の楽舞の会への招待状だった。

会場には、皇太子妃の兄に当たる公爵九条道実(くじょう・みちざね)や元佐賀藩主の侯爵鍋島直大(なべしま・なおひろ)といった貴族の他、以前から漱石と顔見知りの坪内逍遥や国語学者の大槻文彦らの顔も見えた。

舞台の上では、楽人たちによって『三台塩急(さんだいのきゅう)』『春庭花(しゅんでいか)』『還城楽(げんじょうらく)』といった曲が奏され、閑雅な舞が披露された。能舞台や歌舞伎鑑賞とはまた趣の異なる、珍しくも貴重な体験だった。

ひと段落ついたところで、一同は別室に招かれ、お茶を供された。

漱石は紅茶を飲み、カステラとチョコレートをつまんだ。サンドイッチも出ていたが、甘党の漱石の手は自然と甘いものの方に伸びていた。喫煙室には、雅楽の世界から身を転じ新劇俳優としても活躍している東儀鉄笛(とうぎ・てってき)の姿もあった。

休憩後は、趣向をがらりと変えて、ロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』などの洋楽の演奏があり、会がお開きになったのは夕方5時頃だった。

小説『行人』は、大正元年12月から朝日新聞に連載された。途中、作者の病気による中断をはさみ、完結したのは大正2年11月。単行本にまとまるのは大正3年1月だった。漱石は楽舞の会を楽しんだ体験を、2年後に物語の素材として使ったことになる。写真/神奈川近代文学館所蔵

小説『行人』は、大正元年12月から朝日新聞に連載された。途中、作者の病気による中断をはさみ、完結したのは大正2年11月。単行本にまとまるのは大正3年1月だった。漱石は楽舞の会を楽しんだ体験を、2年後に物語の素材として使ったことになる。写真/神奈川近代文学館所蔵

漱石は後年、『行人』執筆の際に、この体験を素材として使っている。同作の後半に、主人公たちが雅楽の音楽演習を鑑賞する場面を盛り込み、こんなふうに記したのだ。

《舞は謹慎な見物の前に、既定のプログラム通り、単調で上品な手足の運動を飽きもせずに進行させて行った。けれども彼等の服装は、題の改まる毎に、閑雅な上代(じょうだい)の色彩を、かわるがわる自分達の眼に映しつつ過ぎた。(略)凡(すべ)てが夢のようであった。吾々の祖先が残して行った遠い記念(かたみ)の匂いがした。みんな有難(ありがた)そうな顔をしてそれを観ていた》

小説を書きはじめた頃の野上弥生子(門弟・野上豊一郎の妻)にかつてアドバイスしたように、漱石先生、自身でもつねに「作家として年を重ねる」ことを心掛けていたようだ。

■今日の漱石「心の言葉」
論より証拠音が出るんだから、音曲は人に隠しちゃ出来ない(『吾輩は猫である』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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