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49歳の夏目漱石、8歳児の思いがけない素朴な質問に翻弄される。【日めくり漱石/6月2日】

3 夏目漱石 2

今から100 年前の今日、つまり大正5年(1916)6月2日、漱石は長男の純一とこんな会話を交わした。

「お父さま、彗星が出ると何か悪いことがあるんでしょう?」

「昔の人はそう思っていた。今は学問が開けたから、そんなことを考える者はいない」

「西洋では?」

「西洋には昔からない」

「でも、シーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」

「ありゃローマの時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」

「お父さま、地面の下は水でしょう」

「そうさ水だ。井戸を掘ると水が出るからな」

「それじゃ、なぜ地面が落っこちないの?」

「そりゃお前、落ちないさ」

「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」

「そううまくは行かないよ」

もうすぐ9歳になる小児の素朴な問いかけに翻弄される、49歳の漱石がいる。

純一はさらに「家が軍艦ならいい。地震がきても潰れないから」と言い出した。子供というのは無垢で先入観がないだけに、面白いことを思いつく。これには、妙に感心してしまう漱石先生であった。

夏目房之介著『孫が読む漱石』。著者の夏目房之介さんは漱石の孫(長男・純一の長男)で、漫画評論家、エッセイストとして活躍している。

夏目房之介著『孫が読む漱石』。著者の夏目房之介さんは漱石の孫(長男・純一の長男)で、漫画評論家、エッセイストとして活躍している。

『文学論』の序文に、英国での留学生活を《尤(もっと)も不愉快の二年なり》と綴ったことがひとり歩きして、時として、帰国後の漱石は西洋嫌い一辺倒になったと誤解されることがある。しかし、西洋文明のすぐれている点も、これからの時代に英語やフランス語などの外国語の習得が重要なことも、十二分に認識していた。

そのため、子供たちに自ら英語やフランス語を教えてもいる。三女の栄子には女学校でフランス語を学ぶことを薦め、長男の純一と次男の伸六は、フランス語教育に力を入れている暁星小学校に通わせてもいる。男児ふたりには、続けて、中学では英語、高等学校ではドイツ語の学習に力を入れさせ、大学入学前には3か国語をあやつれるようにするという遠大な構想もあった(漱石の鬼籍入りで計画倒れに終わったが)。

翻ってみれば、そもそも英国留学中の漱石本人にしてからが、自身の学びをさらに深めるため、予め決められていた2年の留学期限満了後、引き続きフランスへ場所を移して留学生活を続けることを考え、文部省に申し入れをしたこともあった。ロンドンから門弟・寺田寅彦あてに書いた手紙の中にも、

《僕は留学期限を一年のばして仏蘭西(フランス)へ行きたいが聞届けられそうにもない》

との一文が読める。

さて、漱石の教育方針が功を奏したのか、三女の栄子はフランス語の学習を継続的に進め、フランス語教員免許まで取得した。また、長男の純一は、18歳で欧州に遊学してブタペスト音楽院(ハンガリー)などで学び、ヴァイオリニストとなっている。

しかも、純一の長男の夏目房之介さんがその著『孫が読む漱石』に記すところによれば、純一の遊学は、漱石のような孤独な懊悩を伴うものではなく、ヴァイオリンを学びながらテニス、乗馬、猟を楽しみ、貴族と交流し、あつらえのスポーツカーを乗り回すなど、白洲次郎顔負けの悠々たるものだったという。経済的バックボーンには、漱石没後の全集の刊行や、漱石の遺した名作の数々が、出版の大衆化で、生前を凌ぐ人気で売れ続けたことがある。

限られた留学資金から書籍の購入費用を捻出するため、昼飯代わりにビスケットをかじることもあった漱石先生。わが息子の優雅な欧州生活を、空の上からどんな顔で見守っていただろうか。

■今日の漱石「心の言葉」
言葉の通じない、様子のわからないところほど、不便なものはない(『書簡』明治33年10月23日より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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