今から115 年前の今日、つまり明治34年(1901)5月21日、ロンドンの漱石は朝目覚めたときから、髭の右のつけ根にデキモノでもできたような痛みを感じていた。
原因はすぐに思い当たった。前夜遅くまで同宿の池田菊苗(いけだ・きくなえ)と話をしながら、漱石は自分の髭をずっとひねっていたのである。
池田菊苗は漱石より3つ年上。のちに理化学研究所の設立にも尽力する化学者で、「味の素」の発明者としても知られる。1年半のドイツ留学を経て、ロンドンの王立研究協会で研究を深めるべく、2週間ばかり前から漱石と同じ下宿に逗留していたのだった。
前夜、両人の間でとくに盛り上がったのは、「美人」に関する話だった。
それぞれが自分の理想とする美人について事細かに述べたてた後、その理想とそれぞれの現実の奥さんとを比較してみると、いやはや驚くばかりかけ離れている。ほとんど比較しようもない。ふたりは互いに、大笑いしてしまったのだった。
《両人現在の妻と、この理想美人を比較するに、ほとんど比較すべからざるほど遠かれり。大笑いなり》
というのが、その日の漱石の日記の記述である。
漱石の妻の鏡子が身勝手な男たちのこの会話を聞いたら、怒っただろうか。いや、きっと「何をおっしゃっているのやら」と、右から左に聞き流しただろう。そのくらいの度量は持ち合わせている鏡子夫人である。「そうでなきゃ、あの人の奥さんなんて、つとまりませんよ」そんなつぶやきさえ、聞こえてきそうだ。
もちろん、漱石と菊苗は、美人談義にばかり明け暮れていたわけではない。このあと菊苗の帰国(8月30日)まで続く交流の中で、両人は、世界観や禅の話、哲学のこと、文学のことなど、深く真摯に語り合った。漱石にとって、極めて有意義な時間だった。
後年、漱石はこう語っている。
《倫敦(ロンドン)で池田君に逢ったのは、自分にとって大変な利益であった。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた》(『処女作追懐談』)
そもそも文部省が第1回の給費留学生としての漱石に与えた課題は「英語研究」だった。漱石はこれを受けて、明治33年(1900)6月16日付で、次のような誓書に署名・捺印して文部大臣あてに提出している。
《今般英語研究のため満二年間英国留学命ぜられ候については、留学中ならびに帰朝後とも固く御規定の旨を遵奉(じゅんぽう)し誓って違背(いはい)つかまつらず候》
ここにも、はっきりと「英語研究」の4字が明記されている。
その一方で、漱石は余りに限定的な課題の示し方に疑問と戸惑いを感じ、留学準備のため熊本を引き払い上京すると、文部省の専門学務局長・上田万年(かずとし)のもとを訪れ、こう問い質した。
「留学中の研究課題は、英語でなく英文学ではいけないのでしょうか」
すると、漱石と同年生まれの国語学者でもある上田は、こんなふうに答えた。
「別段、窮屈な束縛をするというのではありません。ただ帰国後、高等学校もしくは大学で教えるべき科目を研修してもらいたい」
この口頭でのやりとりを経て、ロンドンの漱石は「英文学研究」に勤しんでいた。ところが、池田菊苗と対話を交わすうちに、もっとどっしりとした、深く掘りさげた研究に取り組みたいという気持ちを固めていったのである。

池田菊苗との交流を経て、壮大な研究テーマに取り組んだ漱石は、そのひとつの成果として、帰国後、東大での自身の『英文学概説』の講義をもとに『文学論』をまとめた。講義を受講していた門下の優等生・中川芳太郎が自らのノートをもとに草稿を起こし、そこに漱石が朱筆で加筆・修正をほどこす形で作業は進められた。後半に行くほど朱筆が増え、最後はほとんど書き下ろしの原稿となった。写真/神奈川近代文学館所蔵
この頃、岳父(妻・鏡子の父親)の中根重一に宛てた手紙の中で、漱石は一大著述を成したいとの考えを示し、その中身の構想についてこう記している。
《小生の考えにては「世界をいかに観るべきやという論より始め、それより人生をいかに解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的およびその活力の変化を論じ、次に開化のいかなるものなるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖し、その連合して発展する方向よりして文芸の開化に及ぼす影響、およびその何物なるかを論ず」るつもりに候》(明治35年3月15日付)
漱石が留学中に書いたノートをも参考に、もっと端的な言い方をしてしまえば、「新しい時代を迎える中で、世界は、日本はどこへ向かおうとしているのか」「その中で、人類は、日本人は、個々の人間はどう生きて、どう調和していくべきなのか」「そこで文学(文芸)が果たせる役割はなんなのか」といったことを追究しようとしたということだろう。
人間社会のことのみならず、他の動物と人間との調和のことまで、漱石のノートは及んでいる。
いずれにしろ、池田菊苗との交流を経て、「英語研究」はもちろん「英文学研究」という枠組みもはるかに超えた、壮大にして根源的なテーマに挑んでいこうとする漱石先生なのである。
■今日の漱石「心の言葉」
日本目下の状況に於て、日本の進路を助くべき文芸はいかなるものか(『ノート』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
