『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
夫を知る点において、嫁ぐ前と嫁ぐ後とに変わりがなければ、細君らしいところがないのである(『野分』より)

漱石の『坊ちゃん』を掲載する雑誌「ホトトギス」の表紙(明治39年4月発行)。写真/日本近代文学館所蔵
【1912年4月27日の漱石】
今から104 年前の今日、すなわち明治45年(1912)4月27日、1月からはじまった新聞連載小説『彼岸過迄』の執筆を終えて間もない漱石のもとに嬉しい一報が届いた。入院中だった門弟の野上豊一郎が退院したというのだった。
豊一郎は、英文学者にして、女流作家・野上弥生子の夫でもある。
野上弥生子の最初の習作『明暗』を読んで、漱石が懇切丁寧な批評と指導をしたことは、以前、紹介した(記事を読む)。漱石は続けて、弥生子が書いた小説『縁』を、優れた作品として高浜虚子(たかはま・きょし)に紹介し、彼の編集する俳句雑誌『ホトトギス』へ掲載するよう強くすすめた。
《「縁」という面白いものを得たからホトトギスへ差し上げます。(略)広く同好の士に読ませたいと思います》(明治40年1月18日付)
また、その次の作品『七夕さま』の掲載にあたっては、原稿料を奮発するよう要請までしている。
《七夕さまをよんで見ました。あれは大変な傑作です。原稿料を奮発なさい。先だってのは安すぎる》(同年5月4日付)
漱石のこんな後押しで、弥生子は女流作家として確実に歩みをはじめている。
その弥生子の夫である野上豊一郎が、チフスにかかり東大病院の伝染病室に入院したのは3月上旬だった。入院期間は1か月半にも及んでいた。この間、漱石は、夫の身を案じる野上弥生子をいたわり励ましたり、病院に見舞いにいったりして、さりげない気遣いを示し続けていた。
豊一郎の退院の知らせを受けて、漱石は、すぐさま一筆したためた。
《御退院おめでたく存じ候。随分長々の拘留(こうりゅう)さぞかし御退屈の事と存じ候。なお、病後の御健康万事気をつけ御かまひ可然(しかるべく)と存じ候》
まずは退院を祝いながら、退院後もしっかり養生するよう書き添えている。
弟子の体調を自分のことのように心配する漱石だが、自分自身は、ここ何年も胃に慢性的な痛みを抱え、ともすると神経症の気配も顔を出す。手紙では、そんな自身の近況も書きつつ、次のような進言もした。
《大兄の方は慢性的のものでなき故(ゆえ)、なるべく一時に癒(なお)しておく事必要に候。できるだけ転地でも何でもして、ゆっくり損失を取返す御工面(ごくめん)可然(しかるべく)と存じ候》
病気は慢性化させないよう、できるだけ一気に治癒させてしまうのがいい。漱石はつねづね、そう考えていた。それだけ、漱石本人は持病の胃潰瘍に苦しんでいたことの裏返しだったともいえる。
人生航路はいつも順風満帆であるわけもない。夫婦とは、こういう苦労もあって、互いに支え合いながら理解を深め、他からはうかがい知れぬ信頼関係を築いていくもの。漱石先生、若い門下生夫婦を温かい目で見守っているのである。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
