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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

文法を習ったからといって、それがため会話が上手にはなれず(『中味と形式』より)

オードリーヘップバーンのお墓20160223_092612

オードリー・ヘップバーンは『マイ・フェア・レディ』で訛りのあるロンドの下町娘イライザを演じた。かの名女優はスイスで永遠の眠りについている。


【1901年4月24日の漱石】

今から115 年前の今日、すなわち明治34年(1901)4月24日、官費留学でロンドンに来て半年が経った34歳の漱石は、下宿の家政婦ペンと向き合いながら、ひどく困惑していた。下宿の経営者であるブレット家の人たちは、みな出払っていた。そういう時に限って、ペンは漱石をつかまえて、やたら早口で、漱石の顔面に唾を飛ばさんばかりにしてまくしたててくる。しかも何を言っているのか、なかなか理解できないのである。

ネイティブ英語の早口だから聞き取れないのではない。ロンドンの下町の庶民階級には、独得の訛りというものがある。漱石はこれを「江戸ッ子の”べらんめー”と同じようなもの」と表現している。要するに、日本語にも地域などによる言葉遣いの差異があるように、ひと口に英語といっても現地では学校の教科書で習うものと異なる様々な言葉が飛び交っているのだ。

ちなみに映画『マイ・フェア・レディ』で、オードリー・ヘプバーンの演じるロンドンの下町娘も訛りがきついという設定になっていた。漱石の下宿するブレット家の家政婦ペンにも強烈な訛りがあって、漱石は言われたことの半分も理解できないありさまなのだった。

幕末・明治の語学者だったジョン万次郎の場合は、こうした状況とは正反対の体験をしたといえようか。土佐高知の漁師だった万次郎は出漁中に漂流したところをアメリカの捕鯨船に救われ、アメリカ大陸に渡った。捕鯨船の中は、様々な訛りのある英語が飛び交っていて、長い航海の中で自然とこれに馴染んだ万次郎は、どこの学校教育でも学べないような超実践的な英会話能力の基礎を養えたというのである。

さて、ペンと向き合う漱石先生は、必死で耳を傾け、頭をフル回転させる。わかった単語を想像でつなげてみるに、どうやら、きのう差配人(借家を管理する人)がやってきて、その対応に苦慮したことなどを話しているらしい。その後のことはよく聞き取れないので漱石がつい笑い顔になると、相手は自分の話が面白いから笑ったものと誤解して、いよいよ饒舌になる。漱石の戸惑いは、いよいよ深まっていく。

明日は、ブレット家とともに、今住んでいるフロッドン・ロードからツーチング・ステラ・ロードへ引っ越しをする予定である。家政婦の言っていることはわからないし、家の者の帰りが遅いので、漱石先生、なんだか不安になる。想像はふくらみ、胸の中でこんなことまで呟いている。

「これで彼らが詐欺師だったら、自分はとんだ馬鹿ものだ」

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

   
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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