『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

前途に大なる希望を抱くものは、過去を顧みて恋々たる必要がないのである(『野分』より)

熊本時代の漱石が東京の正岡子規に送った句稿。両人の間では頻繁に手紙のやりとりがなされていた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

熊本時代の漱石が東京の正岡子規に送った句稿。両人の間では頻繁に手紙のやりとりがなされていた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

【1897年4月23日の漱石】

今から119 年前の今日、すなわち明治30年(1897)4月23日、熊本で英語教師をしていた30歳の漱石は、東京・根岸の正岡子規に手紙を書いていた。

子規は、東京から遠く離れた熊本で暮らす漱石のことを慮(おもんぱか)り、叔父の加藤拓川(かとう・たくせん/外交官)に頼んでみるから翻訳官でもやったらどうか、そんなふうな手紙をよこしてくれていた。

漱石は子規の配慮に深謝しつつ、こう返事をした。

外務関係の翻訳官となると法律上の専門用語なども多いだろうし、間違いなくやっていけるという自信が持てない。もちろん1~2年見習いをすれば相当程度のことはこなせるだろうが、高等官並みの働きもできないのではないか。そんな状況で、紹介を受けたら、君や加藤氏の面目を損じてしまう恐れがある。せっかくだが、いまは差し控えるべきだと愚考する--。

そして、漱石は、

《小生の目的御尋ね故(ゆえ)御明答申上たけれど、実は当人自らが所謂(いわゆる)わが身でわが身がわからない位》

と迷いの中にある自分をさらけ出す。

翻訳官として自信が持てないというのは、いささか謙遜の度合いが過ぎる気がしないでもない。むしろ、漱石はそうした仕事をやりたいと思わなかったのだろう。それでも、子規の親切心をありがたく思うから、こうした遠回しの言い方で断ったと推測できる。

漱石は、手紙の最後で胸の奥をこう吐露した。

《単に希望を臚列(ろれつ/並べること)するならば、教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり。換言すれば文学三昧にて消光(しょうこう/暮らすこと)したきなり》

英語教師でも翻訳官でもなく、ひとりの文学者として文学的な仕事にだけ没頭して暮らしていきたい。それが正直な思いだが、簡単に文筆一本の生活になど入れない現実もわかっている。のちの文豪・漱石。3o歳の春は、まだはっきりと踏み進むべき道筋をつかみきれずにいたのである。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

  

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

 

 

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