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夏目漱石、深夜に胸の苦しみを訴える妻に見せた夫の優しさ。【日めくり漱石/4月21日】

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

愛は迷いである。また悟りである。しかして、愛の空気を呼吸するものは迷いとも悟りとも知らぬ(『野分』より)

漱石の書「夜静庭寒」。盛唐の詩人・厳維(げんい)の五言律詩中の「夜静渓声近 庭寒月色深」からとられたもの。「夜は静かで谷川のせせらぎが耳近くに聞こえ、庭は寒く月の光が深い色をたたえている」という閑寂な境地を表現。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

漱石の書「夜静庭寒」。中国・唐の詩人・厳維(げんい)の五言律詩中の「夜静渓声近 庭寒月色深」からとられたもの。「夜は静かで谷川のせせらぎが耳近くに聞こえ、庭は寒く月の光が深い色をたたえている」という閑寂な境地を表す。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

  

【1909年4月21日の漱石】

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)4月21日の深夜2時頃、漱石(42歳)は眠っているところを、妻の鏡子に起こされた。漱石はひとり書斎の隅に床を延べて寝るのを常としていたが、鏡子はそこまでやってきて、「胸が苦しい」と訴えたのだった。

漱石は起きて介抱したが、鏡子の具合はなかなか落ち着かず、嘔吐してしまう。午前4時過ぎになって、漱石はそっと玄関の扉を開ける。外はまだ暗く、庭は寒い。周囲は夜の静寂につつまれたままだ。後年の漱石の書「夜静庭寒」の4文字と字面的には重なる状況ともいえるが、もちろん、いまここに詩的な閑寂の入り込む余地はない。

漱石は、ただ急ぎ足で歩き出す。目指すのは、最近、夏目家に出入りしてもらっているかかりつけの医師・小林剛栄のところ。早朝ではあるが頼み込んで往診してもらい、注射でもしてもらったら妻の苦痛がおさまるのではないか、と考えたのである。

漱石がいない間に、鏡子は再び吐いてしまっていたが、医師に診察してもらうと「大したことはない」と言われ、漱石も鏡子もひとまず、ほっと安心した。

いつのまにか、夜は明けていた。医師を送り出すと、時計の針は午前6時を回っている。漱石は少し落ち着いた気持ちになって、朝露に濡れた庭に出てみた。榎(えのき)の若葉が快晴の天に向かって聳(そび)え、とても美しく見えた。ようやく詩的な感慨を伴って周囲を見るだけの余裕が、漱石の心に生き返っていた。

ところが、その夜、また鏡子の気分が悪くなり、漱石は再び医師の小林剛栄を呼びにいった。子宮内膜炎ではないかという診断が出て、炎症を氷で冷やす処置が施された。付き添いの看護師も手配した。

子供たちも、母親の具合が悪いのでなんとなく落ち着かない。漱石が様子を見に行くと、長男の純一と四女の愛子が熱を出し額に濡れ手拭いをのせている。次男の伸六と三女の栄子は泣きだしてしまう。漱石はそれぞれの子に気を配りながら、三女の栄子を抱いて寝かしつける。てんやわんやなのである。

この日の漱石は、主婦こそが家庭生活の要であることを改めてつくづくと思い知るのだった。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

    
文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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