『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
物はなんでも先の見えぬところがお慰(なぐさ)みだ(『断片』明治38、39年より)

東京・上野公園の一隅で、漱石の時代の雰囲気をとどめながら営業を続ける鳥すき焼きと会席料理の老舗『韻松亭』(写真右奥)。
【1893年4月16日の漱石】
今から123 年前の今日、すなわち明治26年(1893)4月16日、26歳の漱石は東京・下谷区上根岸(現・台東区根岸)の88番地にある親友・正岡子規の家を訪ねた。子規の終の棲家となる子規庵とは、すぐ近所ながら番地違いの家である(この翌年、子規は同82番地に引っ越しをし「子規庵」と称することになる)。
子規は前年の6月、大学の学年末試験を放棄し、12月には日本新聞社に入社していた。一方の漱石は、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師をつとめながら、東大英文科に学び続け、3か月後には卒業を控えていた。この頃、日本の大学は9月始まりだったのである。
東京専門学校で漱石の講義を受ける学生の中には、子規の従弟の藤野古白(ふじの・こはく/俳人、小説家)もいた。このころの漱石の講義はレベルが高くて難しく、また漱石自身の若さゆえにこなれていない部分もあったのか、学生たちの評判は必ずしも芳(かんば)しくなかった。そんな噂を、おそらく古白から伝え聞いたらしく、子規が漱石に注意喚起したこともあった。
この日も、ふたりは、自分たちの将来や文学のこと、日本のゆく末について言葉を交わしたことだろう。顧みれば、漱石と子規は、往復書簡の中で、文章というものについて自説をぶつけ合う「文章論争」を行なったこともあった。それは、煎じ詰めていえば、以下のようなものであった。
漱石は、文章を書くときには「何を書くか」という思想が第一義であり、その思想を養うためには、教養を身につけることが肝要で、そのための読書を勧めるという立場。その頃、日がな筆をとっては様々なことを書きつけている子規に対して、「毎日毎晩書いて書いて書き続けても、それは子どもの手習いと同じこと」と手厳しい言葉をぶつけた。
これに対し子規は、あくまで修辞(レトリック)重視の立場をとった。古人の残した書物を眺めて教養や思想の涵養(かんよう)に時を費やすより、今の自分を基底にしつつレトリックを駆使した表現活動を積極的になさんとした。子規にすれば、自分は結核という病を抱えていて、残された時間はさほど多くはないという意識もある。試験を受けて大学を卒業するよりも新聞社で働く道を選んだのも、同じ発想だろう。
その後、漱石は子規に導かれるようにして、上野に向かった。目指すは上野公園内に明治8年(1875)に開業した『韻松亭(いんしょうてい)』。この日は、そこで日本新聞社の集会が開かれることになっていたのであった。
『韻松亭』は、現在も往時の建物を生かしつつ、鶏料理や豆腐料理を中心とする日本料理店として営業を続けている。漱石先生や子規を偲びつつ訪れてみるのも一興だろう。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
