『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
標札はあるときと、ないときがありますよ。標札はあてにゃなりません(『吾輩は猫である』より)
【1906年4月11日の漱石】
今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)4月11日の朝、39歳の漱石が自宅(東京・千駄木)の門柱を見ると、見慣れない門札が掛かっていた。中央の「夏目金之助」(漱石の本名)の文字を、両側から2匹の猫が向かい合う形で挟んでいる。そんな意匠の門札だった。
漱石はこれを、苦い顔で眺めた。
漱石のもとに差出人不明の葉書が届いたのは、前夜遅くのことだった。その葉書には、おおよそこんなことが書かれていた。
「先生は高名な文学者だから門標などはなくても世間によく知られているのでしょうが、今の門標は雨風にさらされて文字が見えにくくなっている。どうせ門標を掲げるならはっきりしたものの方がよいと思うので、新しいものを差し上げる。お用いになろうとなるまいとご随意になさってください」
他人の趣味を勝手に押しつけられるのは、気持ちのいいものではない。まして、どこの誰の仕業だか、相手もわからないのだ。ありがた迷惑。不気味でさえある。そんな門札を掲げておけるはずもなく、漱石はすぐに外した。
病気療養のため東大を休学して広島の実家に帰っている門弟・鈴木三重吉から、手紙とともに自作の小説『千鳥』の原稿が送られてきたのも、同じ日だった。読んでみると、これがなかなか面白い。漱石は朝の苦い思いも忘れ去り、
《傑作である。こういうふうにかいたものは普通の小説家に到底望めない。甚だ面白い》
と三重吉への返書をしたため、同時に雑誌『ホトトギス』の発行人である俳人・高浜虚子へ、掲載したらどうかと推薦の手紙を書いたのだった。
《拝啓 僕、名作を得たり。これをホトトギスへ献上せんとす。随分ながいものなり。作者は文科大学生鈴木三重吉君。ただいま休学、郷里広島にあり。僕に見せるためにわざわざ書いたものなり。僕の門下生からこんな面白いものをかく人が出るかと思うと、先生は顔色なし。まずはご報告まで》
簡潔にして、十二分に意を伝える、漱石先生らしい手紙である。
ちなみに、こののち明治42年(1909)6月5日には、深夜何者かが漱石邸(早稲田南町のいわゆる漱石山房)の表札をひっぺがし、牛乳箱を壊し、石を投げ怒号していくという事件もあったらしい。
有名人というのは、いつの時代も、ときとして思わぬ被害をこうむることがある。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
