『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
どこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった(『夢十夜』より)

漱石が教師をつとめた愛媛県尋常中学校。在任期間は1年間だけだった。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【1896年4月10日の漱石】
今から120 年前の今日、すなわち明治29年(1896)4月10日午前9時、29歳の漱石は三津浜港から船に乗り、愛媛の松山をあとにした。英語教師として松山に赴任してからまる1年、次は熊本の第五高等学校への転任が決まっているのだった。
汽船に乗り込む漱石は、大弓を携えていた。
漱石は2年ほど前、東京にいる時から、健康と楽しみのため、盛んに弓を引くようになっていた。松山でも、下宿の裏の空き地に巻藁(まきわら)を吊って稽古場としていた。
港には中学校校長の横地石太郎、俳友で松山生まれの村上霽月(むらかみ・せいげつ)らが見送りにきていた。
漱石は、《わかるゝや一鳥啼(な)きて雲に入る》の一句を詠み残した。
一等船客となった漱石の傍らには、俳人の高浜虚子がいた。虚子は兄の病気見舞いで一時、松山に帰郷していて、これから広島まで漱石と同道して、東京へ戻ろうとしているのだった。
村上霽月は、前日から、漱石や虚子としみじみと別れを惜しむべく、漱石の下宿や虚子の家へ足を運んでいたが、すれ違うばかり。霽月のために漱石がしたためた次のような短冊と対面したのも、両人の姿のない高浜家だった。
《松山より熊本に行く時 虚子に托して霽月に贈る 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし》
ようやく互いの顔をつきあわせた三津浜港での別れは、時間もなく、あっさりしたものにならざるを得なかった。
松山を離れた漱石と虚子は、この日は、日本三景のひとつとして有名な宮島へ立ち寄り一泊した。宮島までの4~5時間の航路、漱石と虚子は一等客室の2段ベッドで横になった。虚子がなんだか楽しくなって、「愉快ですねえ」と下から話しかけると、漱石も、ふふふと笑って、「愉快ですねえ」と答えた。虚子が「洋行でもしているようですねえ」と続けると、漱石も「そうですねえ」と相づちを打った。この時代、西洋への留学は皆の憧れであった。
宮島でふたりが泊まった宿は、もみじ谷公園の中で今も営業を続ける老舗旅館『岩惣』だったと推察されている。この宿には、後年、作家の吉川英治らも逗留している。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
