『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
大学生の意気、妙に衰えて俗に赴くように見うけられ候(『書簡』明治40年 3月23日より)

熊本で漱石自身の借りたものとしては3番目の借家となった熊本・井川淵の家。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【1888年4月1日の漱石】
今から128 年前の今日、すなわち明治31年(1888)4月1日、引っ越し間もない漱石の住まいを、学生時代からの友人である狩野亨吉が(かのう・こうきち)訪ねてきた。ふたりはいま熊本にいる。亨吉は、3か月ほど前から、漱石と同じ熊本第五高等学校に赴任してきているのだった。
漱石は熊本五高に勤務した4年あまりの間に、6回住まいを変えている。最初に住んだのは、漱石の友人で同じ五高に勤務していた菅虎雄(すが・とらお)の住む熊本市薬園町の家の離れだった。これは当座の、いわば仮住まいという形だったろう。続いて、市内下通町に自身で家を借り、結婚して新妻の鏡子を迎え、その後、合羽町、井川淵、内坪井町、北千反畑町の旧文学精舎跡と引っ越しを重ねた。
この日、狩野亨吉が訪ねたのは、漱石自身が借りたものとしては、熊本での3番目の住まいとなる井川淵町の借家。藤崎八幡宮の100 メートルほど下手で、眼下に白川が流れ、庭には榎(えのき)があった。2階建てだが、部屋数は多くはなかった。
当時の風習として、教師の家には、学生が家事を手伝いながら勉学に励む書生として寄宿していた。漱石の家も例外ではなく、このころ俣野義郎、土屋忠治というふたりの学生を住まわせている。師弟関係が密となるのも、もっともなのである。井川淵の家は、それ以前の家に比べ間数が少なかったため、漱石は引っ越しの際、ふたりの書生に対しこう申し伝えた。
「今度引っ越す家は狭くて、とうてい君たちを収容しかねる。ついては、君たちは寮に入って勉強したまえ。食費は僕の方で出してやるから」
ところが、両人は、「あと数か月で卒業ですから、どうかそれまで置いてください」と頼み込んだ。
仕方なく漱石は、昼間座敷として使っている部屋を書生たちの寝間に当てるといったやりくりをして、寄宿を続けさせていた。
この日の漱石は、訪ねてきた狩野亨吉と、近頃の教師と生徒の乱行ぶりについて話を交わした。旧制高校には、まだまだバンカラな気風が満ちている時代だった。
俣野と土屋という、夏目家の書生にも、こんな逸話が残っている。ふたりの書生は、漱石の昼の弁当を交替で学校へ持参する役目も担っていた。ところが、悪戯ざかりでもあり、あるとき、自分の弁当と漱石の弁当をすり替えて食べてしまった。やはり書生の弁当より主人の弁当の方が幾分か豪華だったのだろう。書生のこの悪戯を知ったお手伝いさん、一計を案じた。以降、漱石の弁当に封印がされることとなったのである。
毎日、ごていねいに封印を解いて、昼の弁当を食べる漱石先生。なんだか愉快である。
また、俣野はまったくの物ぐさで朝寝坊。あるとき、例のごとく寝坊していたのをついに漱石に咎(とが)められ、あわてて飛び起きたはいいが、いつもの癖で素っ裸で寝ていたため大騒ぎ、といったひとコマもあったという。
そんな漫画さながらの騒動がある一方で、じつはこの井川淵の家では深刻な事件も起きている。梅雨期で水量の増した白川に、ある日の早暁、漱石の妻・鏡子が川淵に投身自殺を企てたのである。当時の鏡子は流産した影響もあって精神的に不安定で、発作的なヒステリー症状から、ことに及んだらしい。大雑把に見えても、鏡子夫人の胸の奥底には繊細さも秘められていた。馴れない田舎暮らし、仕事に忙殺されてあまり自分の方を顧みようとしない夫、そんな生活環境も鏡子の精神不安定を助長していたのかもしれない。なにせ漱石は、熊本での結婚後まもなく、鏡子に対して一方的にこんな宣告をしている。
「俺は学者で勉強せねばいかんから、おまえなどにはかまっていられない。それは承知しておいてもらいたい」
明治の亭主関白はこんなものだったとは思うけれど、言われた新妻の身になればかなりショックだったに違いない。
身投げした鏡子は、幸い、船で投網漁に出ていた者に助けられ、一命をとりとめた。それ以来、漱石はしばらくの間、毎晩、自分と妻の手首を紐で結んで寝るようしたという。そうやって妻を見守るようにして床につきながら、漱石はきっと、新婚早々の妻に投げかけてしまった不人情な一言を反省したりもしていただろう。
その頃に漱石が詠んだ一句。
《病妻のねやに灯ともし暮るる秋》
夫としてのやさしさが、文字の間からあふれ出ている。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
