『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

凝(こ)った身なりをして、そうして凝ったところを忘れているのがいいじゃないか(『書簡』明治39年10月21日より)

漱石のお洒落心をうかがわせる藍絞り染め長襦袢。見えないところにも気をつかうのが江戸っ子の粋。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

漱石のお洒落心をうかがわせる藍絞り染め長襦袢。見えないところにも気をつかうのが江戸っ子の粋。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

【1909年4月4日の漱石】

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)4月4日、東京・早稲田南町にある漱石の自宅を、雑誌『中央公論』の編集者である滝田樗陰(たきた・ちょいん)が訪れた。しばし歓談したあと、漱石は樗陰にも手伝ってもらって、20余りの小包を牛込郵便局へ出しに行った。

小包の中身は、再版されたばかりの『文学評論』。出版元の春陽堂から昨日届いて、友人らに送るため、漱石が自らの署名を入れたものだった。初版の折は漱石の手元に本が1冊しか届かず、再版を機にようやく送付がかなったのであった。

漱石は郵便を送ったその足で、神楽坂の通寺町(かよいてらまち)へ下駄を買いに出かけた。漱石の妻・鏡子の回想譚『漱石の思い出』によれば、漱石は《非常に渋好みのくせに大のおしゃれ》だったという。

ついこの2日前にも、日本橋の百貨店『白木屋』(しろきや)の「見切売出し」に出かけるという鏡子に、漱石は自分の使う襦袢(じゅばん)の袖を見てきてくれるように頼んでいる。この時、白木屋には羽二重の袖しか置いていなかった。そんな話を帰宅した鏡子から聞いて、漱石は、自分の好みに合わないので買うのをやめにした。なかなかに趣味がうるさいのである。

ことは、自分自身の衣服のみにとどまらない。漱石は時に、鏡子の着物の柄選びにも口を出した。出入りの呉服屋が広げた反物を次々と取り出しては、鏡子の肩から胸へとかけさせて部屋中を歩かせる。ちょっとしたファッションショーのようなありさまだった。モデルは鏡子ひとり。漱石はそれを眺めて、あっちがいいか、いやこっちの柄の方がいいかと思案する。しまいには歩かされる鏡子の方が、すっかり疲れ果ててしまうほどだったという。

さて、神楽坂で下駄を買い求めたあと、坂道を歩いていると、漱石は急に胃に強い痛みを覚えた。「毘沙門様」の呼び名で親しまれる善国寺の付近で腰掛けて休みながら、漱石は、境内の半鐘の脇に芽吹きを見せる柳の枝が風に揺れたり、門の傍らの桜のつぼみがふっくらとふくらんでいるのを、しばらくのあいだ静かに眺めていた。

この時、漱石先生は衰えゆく自身の体と、新たな生命の芽吹きを感じさせる木々の変化との対称を、ある感懐とともに受け止めていたのだろうか。通りの向かい側では、魚屋の大将と小僧が威勢のいい売り声を上げていた。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

 

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