『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

彼らは、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満と、それに伴う倦怠とを兼ねそなえていた(『門』より)

京都の四条大橋の袂にある出雲の阿国像。阿国は慶長8年(1603)京の都で「かぶき踊り」を披露。これが今日の歌舞伎芝居につながったという。

京都の四条大橋の袂にある出雲の阿国像。阿国は慶長8年(1603)、京の都で「かぶき踊り」を披露。これが今日の歌舞伎芝居につながったという。


【1915年4月2日の漱石】

今から101 年前の今日、すなわち大正4年(1915)4月2日、数え49歳の漱石は、旅先の京都で病臥していた。胃の痛みで倒れたのは3月25日。いったんは回復したようにも思えたのだが、3日前にまた体調を崩し寝込んでしまった。そんな様子を案じて、東京から妻の鏡子が呼び寄せられた。

知らせを受けた鏡子は、すぐに東京を出る夜行の急行列車に乗り、この日の朝7時過ぎに京都へ到着。駅には、漱石の友人で画家の津田青楓(つだ・せいふう)が迎えに出ていた。

漱石は旅宿「北大嘉(きたのたいが)」で床に伏せたまま鏡子を待っていた。幸い、昨日よりは、幾分か調子がよい。

漱石は鏡子の姿を見るなり、「おい、羽織や帯が乱れて、なんだかだらしなくなっているぞ」と注意を与えた。漱石先生、明治の男だけに、妻に感謝の言葉などかけるのは照れくさくもあり、ついそんなことを口にしてしまったのだろう。それに、京都の漱石は、茶屋「大友」の名物女将・磯田多佳、芸妓の金ちゃんやお君さんといった「綺麗どころ」に囲まれていた。客商売でつねに身綺麗に整えている彼女らの目に、自分の妻の身だしなみがどう映るのか。そんなことも、漱石は、ちょっと気にしたように思える。

鏡子にすれば、「急いで夜行で駆けつけたのに」という思いの方が強かっただろうが、まあ、それもいつものこと。まずは、夫が元気そうでほっと安堵したのだった。

ひと心地ついたところで、せっかく京都に来たのだからということで、鏡子は津田青楓の案内で京都見物に出かけることになった。ふたりは、大極殿、知恩院、清水の辺りを見て回った。すっかりいい心持ちになった鏡子と津田は、帰る道すがら、夜は芝居でも観に行きましょうという話で盛り上がった。漱石は寝ているとはいえ思ったよりずっと元気だし、なんだか夫婦して京都旅行に出かけてきたように錯覚して、鏡子はつい浮かれた気分になっていたのかもしれない。

そんな気分のまま宿へ帰って、「夕食の時間を早めにしてもらって、お芝居を観に出かけたいんですの」と鏡子が口にすると、漱石の顔色ががらりと変わった。

「なに、芝居に行く? お前は一体、京都に何しに来たんだ。病人をおっぽりだして昼間ぶらぶら出歩いて、今度は芝居に行くというのか」

叱られてみれば、もっとものこと。鏡子も津田も、思わず緩んだ姿勢を正した。

病床の漱石先生、東京の鏡子に電報を打ったことを津田から聞かされたときは、「わざわざ呼ぶことはなかったのに」などと言っていたくせに、来てもらうとやっぱり、鏡子夫人にそばにいてほしいのだった。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催中。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

 

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