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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

暗いものをじっと見つめて、その中からあなたの参考になるものをおつかみなさい(『心』より)

3月27日配信リサイズ/平塚らいてう(日本近代文学館)002

平塚らいてう(1886~1971)。のちに女性解放運動家として活躍。女性による女性のための文芸雑誌『青鞜(せいとう)』を創刊した。写真提供/日本近代文学館

 

【1908年3月27日の漱石】

今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)3月27日、数え42歳の漱石は、妙な空気をまとうふたりの訪客を自宅に迎えていた。漱石の門下生のひとりである森田草平が一高時代の同級生で評論家の生田長江(いくた・ちょうこう)に連れられて、東京・早稲田南町の漱石山房(漱石の自宅)へやってきていたのである。

草平は漱石山房には始終出入りしていた。にもかかわらず、半ば長江の後ろに隠れるように、尾羽打ち枯らしたありさまでやってきたのには理由があった。

この6日前の3月21日、草平は平塚明子(ひらつか・はるこ<らいてう>)とともに失踪して那須塩原に行き、心中未遂事件を起こしていた。草平と明子は、もともと、生田長江の肝入りで始められた女性向けの文学講座「閨秀(けいしゅう)文学界」の講師と生徒という関係だった。それがいつのまにか男と女の情を交わす仲となり、坂を転げ落ちるように、失踪、心中未遂へと至っていった。ちなみに、この平塚明子は、後の女性運動家・平塚らいてうである。

事件は新聞紙上にも報じられた。他の女性との間にすでに子供をもうけていた草平への世間の風当たりは強く、長江は、「この上は漱石先生の庇護に頼るほかはない」として、草平を漱石のもとに連れてきたのだった。

漱石は悄然としている草平を叱りもせず、ただ黙って受け入れた。草平はそれから数週間を、漱石のもとで過ごすことになる。大海のような包容力を持つ漱石先生だった。

この間、草平が厭世的な感情に溺れそうになるのを、漱石は現実に引き戻そうと努めた。《ともすればあらぬ方へ逸(そ)れ勝(が)ちな私の性情を、先生によって矯(た)め直された》とは、後に草平が自身の著書『夏目漱石』に綴った一文である。漱石が草平を誘って一緒に風呂に入りながら、事件とはまったく無縁の会話をしたりしたのも、そのためだろう。

この頃ようやく、夏目家にも家風呂が備えつけられていた。

漱石の長女・筆子の回想録『夏目漱石の「猫」の娘』によれば、初めて自宅に風呂がとりつけられた時には、家中で大騒ぎだったという。

早速、ひと風呂浴びようと薪をたきつける。皆がはしゃぎまわり、子供たちはもちろん、漱石も書斎から何度も出てきては、風呂桶に手を突っ込んで湯加減を見る。やがて家政婦のひとりが、書斎の漱石に声をかける。

「旦那さま、お湯がわきました」

待ちかねていた漱石は「よし、よし」と風呂場に向かい、張り切って裸になり浴槽に飛び込んだ。と、その途端、「ひゃっ、冷たい」と叫ぶや、漱石は裸のまま風呂場を出て家族のいる茶の間に飛び戻ってきた。誰も、沸かした湯を下からかき回さねばならないことを知らず、ちょうどいい湯加減と思って飛び込んだ浴槽の中は冷たい水だったのである。筆子は綴る。

《一時は大あわてをしましたが、少し経ってから私達は、素裸で、飛びはねている父を見て、それはそれはおかしくて大笑いを致しました。さすがの父も、怒るのも忘れて、一緒になってお腹をかかえて居りました》

江戸っ子の割には、ややぬるめの湯を好んだという漱石先生も、予期せぬ水風呂にはお手上げだったのである。

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館では、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催している。会期は2016年5月22日(日)まで、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。 

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