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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

私はすべての人間を、毎日毎日、恥をかくために生まれてきたものだとさえ考えることもある(『硝子戸の中』より)

リサイズ/3月26日配信/高浜虚子と河東(日本近代文学館)004

高浜虚子(右)と河東碧梧桐(中央)。俳人として進む道は別れたが、互いの胸の奥には友人としての信頼関係があった。写真/日本近代文学館蔵


【1909年3月26日の漱石】

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)3月26日、数え43歳の漱石は、午前中、門下生のひとり小宮豊隆の指導でドイツ語の習読をした。

午後からは神田に向かい、「清嘯会(せいしょうかい)」に出席した。「清嘯会」は、漱石が趣味にしている謡(うたい/能の声楽部分)の先生である能楽師の宝生新(ほうしょう・しん)が尾上始太郎(おのえ・もとたろう)とともに始めた謡の会だった。尾上始太郎は下懸(しもがか)り宝生流の能楽師。宝生新の代稽古で、何度か漱石の自宅へやってきたこともある。

この日、会に集ったのは、漱石を含め、ほとんどが初級者レベル。漱石は永田博という同好の士と一緒に『清経(きよつね)』を謡った。演目は他に、小宮豊隆の『三山(みつやま)』『望月(もちづき)』、哲学者・安倍能成(あべ・よししげ)の『紅葉狩(もみじがり)』、英文学者で能楽研究家の野上豊一郎と安倍能成による『船弁慶(ふなべんけい)』、菅能近一の『七騎落(しちきおち)』といったところ。お経をあげるような声を上げる者もおり、漱石は呆れてこんな感想を抱く。

「天下、かくの如く幼稚なる謡会なし」

その代わり、妙に通ぶったことを言う者もなく、至極さっぱりとして上品な雰囲気があった。

その後、宝生新と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)、高浜虚子、茅野良太郎の四人が『蝉丸(せみまる)』を披露した。中でも、碧梧桐の謡いぶりに、漱石は「うまいもんだ」と感心した。

碧梧桐と虚子は、すでに他界していた正岡子規門下の双璧といっていい。少年期から親しくつきあっていた仲だが、俳句に対する考え方の違いから、子規の没後、次第に進む道をわかつことになる。碧梧桐は俳句の新傾向運動を推し進めて定型破壊、季語無用といったところまで突き進み、対する虚子は自ら守旧派を宣言して伝統重視の立場を貫いた。

生前の正岡子規は「碧梧桐は冷かなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し」と評していた。もともと対照的な個性を持つふたり。子規亡きあと、次第に進む方向性を分かつのも、必然のことであったのかもしれない。とはいえ、互いの胸の底には別のものが宿り続けていた。碧梧桐の没後、虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」という前書きをつけ、こんな追悼句を詠んでいる。

《たとふれば独楽(こま)のはじける如くなり》

俳句理論の上では厳しく対立していても、それは独楽遊びにおける独楽のようなもの。互いに勢いよく回っているため、ぶつかると相手を弾き飛ばす。だが、傍目にはどう映っても、底にある個人的な友情は生涯変わらなかったのだ。この日の謡の集まりも、一派を率いる俳人としての立場を離れ、旧友相楽しむ一コマであっただろう。

幼稚にして上品な謡の会がお開きとなる頃、戸外ではみぞれが降り出した。漱石は人力車をやとって、家路についた。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。 

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