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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

ふたつとなき命ゆえ、使えるだけ使うが徳用と心得、医師の忠告を容(い)れ、せいぜい摂生致しましょう(『書簡』明治27年3月9日より)

京都の鴨川沿いには、茶屋や料理店、旅宿などが並ぶ。夏場はこれらの建物から河原に向けて納涼床が張り出され、風物詩のようになっている。

京都の鴨川沿いには、茶屋や料理店、旅宿などが並ぶ。夏場はこれらの建物から河原に向けて納涼床が張り出され、風物詩のようになっている。


【1915年3月25日の漱石】

京都へきてから、ちょうど1週間が過ぎていた。

漱石は近々、朝日新聞に次の連載小説を掲載していく予定だった。その小説とは、先日、漱石の自筆原稿18枚が見つかり話題となった『道草』である。この自伝的要素の強い物語を書き出す前に、友人で画家の津田青楓(つだ・せいふう)が京都にいるのを頼りに、気分をリフレッシュして、連載執筆に備えようと思っていた。

漱石は、朝一番に、宿泊先の旅館「北大嘉(きたのたいが)」の者に頼んで帰りの寝台車の切符を手配した。急な決断だった。今から101 年前の今日、すなわち大正4年(1915)3月25日のことである。

もともと胃に持病を抱えているところに、京都に来てからというもの、津田青楓やその実兄で華道家の西川一草亭、彼らの知り合いでお茶屋「大友(だいとも)」の名物女将・磯田多佳(いそだ・たか)らとともに、連日のように歓迎のご馳走三昧が続いていた。もちろん歓迎を受けるのは嬉しいのだが、それが胃腸の負担となったのか、どうも腹の具合がよろしくない。結局、前夜に気分がひどく悪くなる中で、「東京へ帰ろう」と心を決めていた漱石だった。

なお、「大友」の女将・磯田多佳は、もともと茶屋大友の娘として生まれ、しばらく祇園の芸妓をつとめていたが、書画骨董や文学の話にも通じ、機知に富んでいた。この頃、「大友」の経営には多佳の姪が当たっていたが、姪は表に出るのを嫌ったため、多佳が代わって女将のような役回りを担って客人の相手をしていたのである。

漱石が部屋が休んでいると、やがて津田青楓が現れた。

一緒に奈良へ出かける話になっていたのだが、とりやめにしてもらうしかない。漱石は津田に「買ってもらった切符代は、君の分も含め僕が負担するから勘弁してほしい」と謝罪した。

まもなく磯田多佳も心配してやってきた。「ご出発をお延ばしになって、お医者さまを呼んで診てもらったらどないどす?」と進言する。

もっともな話だ。漱石は胃痛もひどくなっているので、この言葉に従い、東京行きの寝台車はキャンセルすることにして、床についた。往診の医師は、「今は動いてはいけません。2~3日は静養する必要があるでしょう」と診断をくだす。

そうこうしているところへ、なんと漱石の姉の高田ふさが脳溢血で倒れ危篤だという電報が舞い込んだ。しかし、今、無理に動けば自身の生命も脅かされる危険があると医師にいわれ、姉の元に駆けつけるのは無理と諦めるしかなかった。

夜になると、かねてから漱石の小説のファンで祇園の芸妓をしていた野村きみ、梅里きぬが、多佳を通して少しでも漱石に会えないものかと訪ねてきた。漱石はふたりの訪問を受け入れ、青楓や多佳も交え5人での世間話となる。そうしているうちに、気がまぎれ、漱石はようやく痛みが和らいでいく感じがしたのだった。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。  

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