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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

学問をやるならコスモポリタン(世界的)のものに限り候。君なんかは大いに専門の物理学でしっかりやりたまえ(『書簡』明治34年9月12日より)

リサイズ3月22日/寺田寅彦オルガン1

高知の寺田寅彦記念館に残る寺田寅彦のオルガン。寅彦の留守中、夏目家に預けられたこのオルガンで練習し、漱石の長女・筆子は演奏の腕前を上げたという。写真提供/寺田寅彦記念館

 
【1909年3月24日の漱石】

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)3月24日、数え43歳の漱石は、東京・永田町にある星岡茶寮(ほしがおかさりょう)へと出向いた。もともと山王日枝神社の境内だった小高い土地の一部が東京府に寄付され、そこに料理を供したり茶会も開ける社交場として建てられたのが星岡茶寮であった。美食と陶芸の巨人として名を馳せた北大路魯山人がここを借り受け、会員制の美食倶楽部を発展させた高級料亭を開くのは、関東大震災後の大正14年(1925)のことだ。

この日、星岡茶寮では、漱石門下生のひとり寺田寅彦の送別会が開かれる予定であった。寅彦は物理学者として、ドイツ留学することが決まっていた。明朝の出発は新橋停車場を8時と、比較的早い。そのため、平日(水曜日)だったにもかかわらず、送別会の始まりは午前11時という昼間の時間に設定されていた。

漱石のほかに、正岡子規(すでに他界)の門弟俳人である高浜虚子(たかはま・きょし)と河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)、漱石門下の野村伝四(のむら・でんし)と小宮豊隆、能楽師の宝生新(ほうしょう・しん)らも顔を揃えていた。漱石は送別の意をこめ、『大原御幸(おおはらごこう)』と『雲雀山(ひばりやま)』の2曲を謡ったという。とりわけ、『大原御幸』の「いつ迄も、御名残(おなごり)はいかで尽きぬべき」という詞章(コトバとフシ)に、思いを重ねたのだろうか。

寅彦とは、漱石が熊本第五高等学校の教師であった頃からの師弟関係である。この4日前の3月20日には、漱石は妻の鏡子に相談して、寅彦のためにシャツやズボン下、鰻の缶詰、お茶、海苔などを用意して届けさせていた。また、3月22日には、寅彦の方から暇乞いに漱石山房(東京・早稲田にあった漱石の自宅)を訪れ、留守中に預かってほしいといってオルガンを置いていっていた。このオルガンは現在、高知市の寺田寅彦記念館に保存・展示されていて、筆者は以前、高知まで出向いて対面したことがある。古びて黄ばんだ象牙作りの鍵盤。焦げ茶色のボディはずっしりとした厚み。それでいながら、細部には優美な曲線や彫り込み細工が生かされていて、漱石と寅彦の間の重厚さと繊細さを併せ持つ類まれな師弟関係を偲ばせる逸品であった。

送別会を終えて帰宅したこの夜、漱石は腹に強い違和感を覚えて目を覚まし、眠れなくなった。まさか寅彦の身の上を案じたり、人を見送る寂しい思いを味わったことが体に影響したわけでもなかろうが、弟子思いで神経こまやかな人柄からすると、まったく関係ないとも言い切れないものを感ずる。

苦痛を訴える漱石を見て、鏡子夫人が懐炉(カイロ)を用意した。これを腹に当てると次第に痛みが鎮(しず)まり、漱石はようやく眠りに落ちていった。鏡子は朝寝坊だが夜は強い。漱石が静かな眠りにつくのを、そっと見守っていた。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

  文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。 

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