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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともにお届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

趣味は人間に大切なものである。楽器を壊すものは社会から音楽を奪う点において罪人である(『野分』より)

3月22日/東京音楽学校湊楽堂

旧東京音楽学校奏楽堂。もともとは学校内に建っていたが、現在は上野公園内に移築されている。現在、保存活用工事中につき閉館。


【1908年3月22日の漱石】

今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)3月22日、数え42歳の漱石は午後2時頃、寺田寅彦とともに自宅を出て、上野へ向かった。上野にある東京音楽学校(現・東京芸術大学)の奏楽堂で催される音楽会を楽しむためであった。寺田寅彦は漱石より11歳年下。漱石が熊本の第五高等学校で教壇に立っていた頃の教え子で、以来、生涯にわたって漱石を師と慕い続けた。専門は物理学だが、随筆家としても一流だった。

漱石は小説『野分』に主人公たちが奏楽堂に行く場面を描いたり、『それから』の中で《楽という一種の美くしい世界》という言い回しを使ったことからも推察されるように、音楽鑑賞を趣味のひとつとしていた。この日のために、漱石は4日前の3月18日、寅彦宛に葉書を書き、「日曜の音楽会には行きたいと思うから、切符を買い求めておいてほしい」と伝えていた。

とはいえ、創作の仕事は、何時から何時まで机に向かっていれば片づくという予測の立つ事務処理ではない。そこで、こんなふうに書き添えることも忘れなかった。

《万一出られねば、前日までに断(こと)わり状を出し候。ただし、切符代はどちらにしても小生担任の事》

行けなかった場合の切符代のことまで明記する辺り、さすがに漱石先生、気遣いが行き届いている。

漱石は、この日、フロックコートの上に新しい外套を身につけて外出した。音楽会は、ちょっとお洒落をして出かける社交の場でもあったのだ。音楽会の最後の演目は、ドボルザークの室内楽五重奏曲。聴衆から巻き起こった大喝采の中に、漱石と寅彦の拍手も混じっていた。

寅彦は自らバイオリンを奏で、理学博士の学位を「尺八の音響学的研究」というテーマで得るなど、音楽に通じていた。この道にかけては、漱石にとって、道標のような役回りを果たした面もあっただろう。ふたりで音楽会に出かけることも繰り返しあった。後年、寅彦は、千駄木に暮らしていた頃(明治36年から39年の間)の漱石と、奏楽堂に出かけた思い出を振り返り、次のように綴っている。

《先生の千駄木時代に、晩春のある日、一緒に音楽学校の演奏会に行った帰りに、上野の森をブラブラあるいて帰った。その日の曲目の内に管弦楽で蛙の鳴声を真似するのがあった、それはよほど滑稽味を帯びたものであった。先生はあるきながら、その蛙の声を真似して一人で面白がってはさもくすぐったいように笑っておられた》(『蛙の鳴声』)

帰りがけには、神田の洋食店『宝亭』で青豆のスープと小鳥のローストを食し、酒杯も傾けた。顔を赤くした漱石は、蛙の鳴き声を真似て上機嫌だったという。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
特別展「100年目に出会う 夏目漱石」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。 

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