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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

すべての創口(きずぐち)を癒合(ゆごう)するものは時日(じじつ)であるという格言を、彼は自分の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた(『門』より)

 

『硝子戸の中』は大正4年1月31日から2月23日にかけて朝日新聞紙上に連載され、これをまとめた単行本が同年3月、岩波書店より刊行された。写真/神奈川近代文学館所蔵

『硝子戸の中』は大正4年1月31日から2月23日にかけて朝日新聞紙上に連載され、これをまとめた単行本が同年3月、岩波書店より刊行された。写真/県立神奈川近代文学館所蔵


【1887年3月21日の漱石】

今から129 年前の今日、すなわち明治20年(1887)3月21日、漱石は悲しい出来事に直面していた。長兄の大助が肺結核でこの世を去ったのである。31年と2か月の短い生涯だった。

大助は色の白い鼻筋の通った美男で、漱石より10歳年上だった。漱石の頭の中には、兄弟としての親しみというよりも、大人対子供としての関係の方が深くしみこんでいた。まだ学生だった漱石は、病が重くなり自宅で病床についた大助の傍らに、よく付き添っていた。枕もとで兄の愛読書を読んであげたり、屏風の陰で自身の勉強のための書物を開きながら、徹夜で看病したこともあった。そんな漱石に、大助の側も、さりげない優しさを寄せた。

漱石は8人兄弟の末っ子。4人の兄と3人の姉があったが(うち2人は夭逝)、この大助にもっとも好もしい感情を抱いていた。

四十九日の法要を終えてひと段落ついた頃、ひとりの女性が、夏目家を訪ねてきた。彼女はもともと柳橋(花街)の芸者で、元気だった頃の大助が馴染みにしていて、深い関係にあったというのであった。

山梨からやってきたというその女は、「兄さんは死ぬまで奥さんをお持ちになりゃしますまいね」と尋ねた。

「しまいまで独身で暮らしていました」

夏目家三男の直矩(なおのり)がそう答えると、女はほっとした表情になり、

「それを聞いてやっと安心しました。私のようなものは、どうせ旦那がなくっちゃ生きていかれないから、仕方がありませんけれども…」と呟くように言い、墓所のありかを聞いて帰っていった。

漱石は半ば夢見心地で、ただ女の後ろ姿を見送った。そうすること以外に、まだ21歳の若い漱石にはなにもできなかった。

後年、不惑を過ぎ、人生の酸いも甘いも身をもって知った漱石は、折にふれ、この女性に再会して兄のことなどを物語ってみたいものだと、しみじみと思った。そして、そのことを、随筆『硝子戸の中』にも綴ってみるのであった。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。 

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