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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

見る所は多く候。時は足らず候(『書簡』明治40年3月31日より)

京都の木屋町通り沿いに流れる高瀬川。江戸期に、京の中心部と伏見とをつなぐ物流のための運河として掘削されたのが原点。

京都の木屋町通り沿いに流れる高瀬川。江戸期に、京の中心部と伏見とをつなぐ物流のための運河として掘削されたのが原点。


【1915年3月19日の漱石】

今から101 年前の今日、すなわち大正4年(1915)3月19日、数え49歳の漱石は、3か月前に開業したばかりの東京駅から下関行きの特別急行列車の1等席に乗り込んだ。京都旅行のためだった。当時、京都までは半日近くを要する長途の旅。朝8時の東京は晴れていたが、午後4時40分、岐阜を通過するあたりから雨降りとなり、午後7時30分、雨の京都に到着した。

京都駅には、友人で画家の津田青楓(せいふう)が出迎えにきてくれていた。青楓は、漱石は2等席に乗っているものとばかり思い込み、雨傘を小脇に漱石の姿を探していたため、落ち合うまでにやや手間取った。

青楓は、もともと京都の生まれ。華道の家元の次男だった。画家を志して修養し、パリへも留学している。漱石門下の小宮豊隆の紹介で、4年前の初夏に初めて東京・早稲田の漱石山房(漱石の自宅)を訪ねてきた。以来、これまで漱石とはずっと東京で交際していたのだが、この10日ほど前から、しばし東京を離れて画題を求め、京都へ戻っていた。

漱石はまもなく、朝日新聞に次の連載小説を掲載していく予定だった。小説『道草』である。この自伝的要素の強い物語を書き出す前に、青楓が京都にいるのをひとつの頼りとして、ちょっと呑気に何日か遊びたいというのが漱石の希望だった。気分をリフレッシュして、連載執筆に備えようというのである。神経がぴりぴりしている漱石を心配し、妻の鏡子が青楓に旅へ誘い出すよう、ひそかに依頼していたとの話もある。青楓の後年の回想録『漱石と十弟子』によれば、鏡子はこんな言葉を青楓に伝えていたという。

「うちの先生は、このごろ神経が弱ってるから、あなたが京都へ行かれたら、先生も誘ってください。そして、しばらく陽気にしてやってください」

京都行きの件を事前に会社(新聞社)に知らせると、大阪朝日新聞の誰彼が迎えに出てきたりして大袈裟になるため、漱石は編集担当の山本松之助にだけこっそり知らせて出かけてきた。いわば、おしのびの京都旅行だった。

漱石の宿所は、青楓が手配してくれていた。木屋町三条に開業したばかりの旅館・北大嘉(きたのたいが)だった。

漱石は人力車に乗って、青楓とともに、高瀬川沿いを北上して宿を目指した。用意されていた客室は、鴨川に面する2階の部屋。漱石はまず入浴をして旅の疲れを洗い流し、浴衣に着替え、午後10時になってようやく遅い夕食を摂ったのだった。

いまなら、半日費やせば、成田空港から旅客機でヨーロッパやアメリカにも行き着ける。そう思うと、当時の京都行きは、なかなかはるかな旅であった。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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