サライ.jp

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

人間は、自分の力も自分で試してみないうちは分らぬものに候(『書簡』明治39年7月2日より)

漱石の愛媛県尋常中学教員嘱託辞令。漱石は明治28年4月から1年間勤務し、欠勤したのは1日だけだったという。写真/神奈川近代文学館所蔵

漱石の愛媛県尋常中学教員嘱託辞令。漱石は明治28年4月から1年間勤務し、欠勤したのは1日だけだったという。写真/県立神奈川近代文学館所蔵


【1895年3月18日の漱石】

今から121 年前の今日、すなわち明治28年(1895)3月18日、数え29歳の若き漱石は借金の申し入れの手紙を書いていた。相手は、大学時代の友人で、山口高等学校に勤務する菊池謙二郎だった。

《小生儀、今般愛媛県尋常中学へ赴任の事とほぼ決定致し(略)御存じの文(もん)なしにては如何(いかん)とも致方(いたしかた)なく、因(より)て甚(はなは)だ御迷惑ながら貴方にて金五十円ほど御融通下されまじく候や》

東京を離れ、中学の英語教師として愛媛の松山へ赴任するに際し、準備のためのお金を必要としている漱石だった。

内容からして、書きたい手紙ではない。けれど、書かねばならなかった。かつては名主をつとめ随分と裕福だった夏目の家も、もはや経済的余裕はなくなっていたのである。松山に行きさえすれば、給与から確実に返済できる見込みは立っていた。

漱石が「愛媛の中学で、退任する外国人教師の代わりをさがしている」という話を聞いたのは、2週間ほど前のことだった。学生時代からの友人で、この頃、東京美術学校(現・東京藝術大学)の教壇に立っていたドイツ語学者・菅虎雄(すが・とらお)を通しての話だった。菅虎雄は、愛媛県参事官を務める同郷(福岡県出身)の浅田知定(あさだ・ともさだ)から相談を受け、すぐに漱石を頭に思い浮かべたらしい。

菅虎雄から話を聞いた漱石は「外国人教師並みの待遇なら行ってもいい」と応じ、最終調整が進められていた。外国人教師の後任として遠く松山まで行き、同じ働きをするのだから、同じように待遇してもらっていいはず。別段、西洋人が西洋人であるがゆえに偉いわけではなかろう。明治期の日本を背負っていく知識人のひとりとして、漱石にはそのくらいの思いがあった。

この頃の漱石は、東京高等師範学校と東京専門学校(のちの早稲田大学)の教壇に立っていた。だが、「このままでは自分自身は燃焼しきれない、何か転機を求めたい」という思いが、体の中に渦巻いていた。松山行きで高い収入が得られれば、それを貯めて将来の留学資金にあてたいという考えも、頭の片隅にはある。

兄の夏目直矩(なおのり)や、高等師範学校校長で講道館創始者でもある嘉納治五郎(かのう・じごろう)は引き留めたが、漱石の意思が翻(ひるがえ)ることはなかった。同じ頃、病躯を押して日清戦争末期の中国大陸へ従軍記者として渡っていった親友・正岡子規の姿も、漱石に刺激を与えていたに違いない

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
10月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア