『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
愛の心に映る宇宙は、深き情けの宇宙である(『野分』より)
【1911年3月16日の漱石】
今から105 年前の今日、明治44年(1911)3月16日の夕刻、東京・早稲田南町の夏目家に、ひとりの客人が訪ねてきた。行徳二郎という青年だった。
二郎は、漱石が熊本の内坪井町にいた明治33年(1900)1月から5月にかけて夏目家に寄食していた門弟で、前年の5月あたりからまた頻繁に漱石の自宅に足を運んでいた。師たる漱石はもちろん、漱石の妻・鏡子ともすっかり打ちとけて話のできる間柄だった。
この日も、漱石夫妻は、二郎を交えてくつろいだ会話に興じる。話は、次男の伸六がお尻のおできを切った傷痕のことから、漱石の顔の痘痕(あばた)に及んでいく。漱石は4~5歳の頃、種痘(天然痘の予防接種)を受けたことから、却って天然痘(疱瘡)を引き起こし、かゆみに耐えかねてかきむしったせいもあるのか、鼻の頭に痘痕が残ってしまっていたのである。
「擦(こす)れば、少しはよくなるでしょう」
鏡子がふざけた調子で言うと、漱石も澄ました顔で「もうこれでいい。このアバタは女難除けだよ」と返した。思春期には自分の外見を損なう致命的欠陥のように思えて随分と気になり、やたら鏡とにらめっこしたこともあった漱石だが、数え45歳となった今は、もはや気にする様子もなく余裕で受けとめていた。
「だって…」と鏡子がちょっと不満げに言うと、
「アバタさえなかったらば、だ。こんな顔だからこそ、お前みたいな女房をもらって我慢しているのではないか」
そういって漱石は大笑いする。
「我慢しなくとも、よござんすよ」と、鏡子が口を尖らせると、漱石は笑顔のまま繰り返す。
「アバタさえなかったらば、だ」
鏡子は反撃に、自分の髪が薄くなっているのを俎上(そじょう)にのせ、
「だから、ハゲでたくさんだわねえ。ね、行徳さん」
あばた面の夫と髪の薄い妻で、割れ鍋に綴じ蓋、ちょうどバランスはとれているというのである。漱石夫妻の、他愛のない、しかし、和やかな会話だった。
鏡子の髪の薄いのも、30代半ばとなったこの頃に始まったことでなく、若い頃からの悩みのひとつ。これより10年ほど前、留学先のロンドンから出した夫人宛ての手紙でも、漱石は、《髪などは結はぬ方が毛の為め(略)オードキニンといふ水がある。これは、ふけのたまらない薬だ。やってごらん。はげがとまるかも知れない》などと書き送っているのである。
周囲がすっかり暗くなった7時15分頃、二郎は漱石邸を後にした。胸の中は、何か、とても満ち足りたような気分になっていた。見送った側も、心持ちは同様であった。
こうして、漱石山房の平穏な一日が、過ぎていく。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。
