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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

大いに勇猛心を起こして、進まなければならない(『書簡』明治40年5月26日より)

3月15日使用分

東京・台東区の上野公園内に立つ西郷隆盛像。高村光雲作。西郷没後21年経過した明治31年に完成した。


1907年3月15日の漱石】

今から109 年前の今日、すなわち明治40年(1907)3月15日、ひとりの巨漢が東京・本郷区西片町(現・文京区西片)の漱石宅を訪れ、2階の一室で漱石と対座していた。相手は東京朝日新聞主筆の池辺三山だった。

漱石のもとには3週間ほど前から、朝日新聞に小説記者(専属作家のようなもの)として入社してほしい旨の誘いがもたらされていた。

この頃の漱石は、東大や一高で教壇に立つ合間をぬって小説などの執筆を行なっていた。創作に専念したい気持ちは以前からあったものの、親戚への援助の必要もあって家計は膨張している。朝日新聞社が提示した月俸200 円は、主筆の交際費を含む月俸270 円には及ばぬものの、経済部長・松山哲堂の140 円を上回る破格の条件だった。

だが、当時の世の中は、いわゆる「官尊民卑」である。

恩給(現在の年金)も含めた将来にわたる経済的安定や社会的身分といった観点からして、まもなく教授昇格も確約されている東大を辞めて新聞社の一社員になることは、当時の常識ではまず考えられないことであった。

漱石に入社を懇願する池辺三山は、顔も手も肩も、すべて大きいづくめで、西郷隆盛を思わせる風格を見せていた。その風格も伊達ではなかっただろう。じつは池辺の父は熊本藩士で、西南戦争の折に西郷隆盛の軍勢に加勢し、敗戦後、処刑されている。大きいずくめの風貌の奥にひそむそんな背景までは、このときの漱石は知らずにいただろう。それでも、池辺の人品骨柄に打たれ、漱石は迷いを振り切って朝日新聞入りを決意した。漱石はその決断を、池辺に告げた。西郷隆盛を思わせる池辺と向かい合いながら、漱石先生の頭の中で、江戸城無血開城へとつながる西郷隆盛と勝海舟の対面の場面がよぎる一瞬もあっただろうか。

その頃の漱石が書いた手紙である。

《思い切って野(や)に下り候(そうろう)。生涯はただ運命を頼むより致し方なく、前途は惨怛(さんだつ)たるものに候。それにも拘(かか)わらず大学に噛(しが)み付いて黄色になったノートを繰り返すよりも、人間として殊勝ならんかと存(ぞんじ)候。小生向後(こうご)何をやるやら何が出来るやら自分にも分らず。ただ、やるだけやるのみに候》

齢41。不惑を超えた漱石の覚悟のほどが、手紙文の行間にみなぎっている。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

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