サライ.jp

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ(『虞美人草』より)

DSC00376

神楽坂の中ほどにある善國寺、通称「毘沙門天」。当時の神楽坂は通りに沿って多くの店が建ち並ぶ繁華街。とくに「毘沙門様」の縁日の日には、大勢の人で賑わったという。『坊っちやん』の主人公の母校とされる物理学校(現・東京理科大)もほど近い。


【1909年3月13日の漱石】

今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)3月13日の東京は風が強く、雨が降っていた。漱石の頭の中には、「物、皆湿(うるお)う」という言葉が浮かんでいた。こんな天候なのにウグイスが鳴いていることが、ちょっと不思議な感じがした。

故郷の高知に帰省中の漱石門下のひとり、物理学者で文学者の寺田寅彦から葉書が届いた。高知はすっかり春で、菜の花が咲き誇り、柳が芽を吹いていることを伝えてきていた。嬉しい季節の便りだった。

西から深まりを告げる春の気配にも誘われたのか、夜になって、漱石は外出した。

雨はやんでいたが、風はまだ強く吹いていた。目指すのは、赤坂に住む門弟・松根東洋城(まつね・とうようじょう)の家だった。やはり漱石門下の野上豊一郎と、俳人の山崎静太郎も集い、4人で謡(うたい/伝統芸能「能楽」の声楽部分)をやろうというのだった。山崎静太郎は、東大建築科卒の建築家で能楽研究家でもあった。

謡の流派でいうと、漱石と豊一郎は宝生流のワキ、東洋城は観世(かんぜ)流、静太郎は喜多流。みな、バラバラである。『桜川』『船弁慶』『清経(きよつね)』の3曲をやったのだが、流派の違いもあるし、腕前もプロ並みとはいかないから調子が合わず、なんだか目茶苦茶である。でも、それはそれで妙に楽しめるのだった。

帰りはすっかり遅くなり、漱石は深夜12時近くになって、神楽坂をのぼっていた。「毘沙門様」の呼び名で親しまれる善国寺の前を通り、早稲田方面へと向かっていけば自宅へと至り着ける。

と、そのとき急に、左右の家々の雨戸や障子がガタガタと音を立てた。

漱石は一瞬、風のせいかなと思った。だが、どうも違う。思わず、立ち止まる。

途端に、ひとりの男が幼児を抱えて家の中から飛び出してきて、「地震だ」と叫んだ。漱石は「そうか、地震だったのか」と得心する。坂の上の方に目をやると、一軒の寿司屋だけが、深夜だというのに、まだ灯をともしていた。ちなみに、10万人以上が犠牲となった関東大震災が発生したのは14年後の大正12年(1923)9月である。

この年(明治42年)の6月から新聞連載が始まった小説『それから』の中で、漱石はこのときの体験を基に、先行きに不安を抱く主人公・長井代助(ながい・だいすけ)の深層心理を、神楽坂の坂道で遭遇した地震に重ねるようにして描出している。

《神楽坂へかかると、寂(ひっそ)りとした路が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞(ふさ)いでいた。中途まで上って来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家(や)の棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子の打ち合う音が、みるみる烈(はげ)しくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦(すく)んでいた。そのとき代助は左右の二階家が坂を埋(うず)むべく、双方から倒れて来る様に感じた》

漱石は、自分の身の回りで起きる日々の出来事を作家としての眼で常に観察し、己の中に取り込みながら名作をつむいでいたのである。

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。

 

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
10月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア