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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

理想のあるものは歩くべき道を知っている(『野分』より)

漱石遺品のエンボス加工黒革財布。英国留学期間中に使用していたものと思われる。写真/神奈川近代文学館所蔵

漱石遺品のエンボス加工黒革財布。英国留学期間中に使用していたものと思われる。写真/県立神奈川近代文学館所蔵


【1901年3月9日の漱石】

今から115 年前の今日、すなわち明治34年(1901)3月9日のロンドンは、「郵便日」だった。この日に手紙を投函すれば、ロンドンを出航する日本行きの定期船にちょうど間に合って積み込んでもらえるという日なのである。漱石の日記に登場する「郵便日」という呼称は、故国を遠く離れて家族や友人と手紙をやりとりする日本人の間で、誰いうともなくつけられたものだったろうか。あるいは、手紙好きを自認する漱石が、自分の中でだけつけた呼び名だったのだろうか。

いずれにしろ、明治時代、日本と諸外国とをつなぐ連絡手段は、もっぱら手紙だった。電話は普及していないし、ましてファックスや電子メールなど発明されてもいない。その手紙を運ぶのも、飛行機ではなく船である。横浜~ロンドン間だと、片道40日余りを要した。しかも、その船が毎日出航しているわけではない。つまり、書き送った手紙の返事が届くまでには、早くても3か月ほどの日数がかかるという状況だった。

ロンドンから東京へ手紙を送る際に「郵便日」があるなら、当然、東京からロンドンへ手紙を送るのにも「郵便日」がある。

横浜を何月何日にどんな船が出て、どこを経由して何月何日にロンドンに到着するという日程の一覧表を郵船会社がまとめているはずだから、これをもらっておいて手紙を出す目安にしなさいと、几帳面な漱石は、そんなことまで妻の鏡子に知らせている。

あまりに時間を要する手紙のやりとりからは、こんな逸話も生まれた。漱石のロンドン留学の出発時、すでに第2子を妊娠中だった鏡子が、出産が近づいてロンドンへ名づけを頼む手紙を送った。手紙を受け取った漱石は、あれこれ思案し、男の子ならこれこれ、女の子ならこういう名前はどうだ、といくつかの候補を書きつらね、返書を出した。

ところが漱石からの返信が届く前に、次女が生まれてしまった。役所への届出期限もあるし、後年の飼い猫のように、いつまでも名前のないままにはしておけない。仕方なく、鏡子は両親と相談して名前をつけた。命名・恒子(つねこ)。漱石も、返書が子供の誕生に間に合わないことを想定し、候補の名前を連ねた手紙に、《何でも異議は申し立てんから、中根のおやじと御袋に相談して決めるさ》という一文も書き添えていた。

さて、「郵便日」のこの日、漱石は、前夜のうちに準備しておいた鏡子夫人宛ての手紙を、午前中に投函した。その中に、こんな一文も書き込んでいる。

《その後、国から便りがあるかと思っても一向ない 二月二日に横浜を出た「リオジャネイロ」という船が桑港(サンフランシスコ)沖で沈没をしたから、その中におれにあてた書面もありはせぬかと思って心掛りだ》

こんなふうに綴ったのも、漱石の郷愁とともに、当時の国際郵便事情を如実に表わしている。「郵便日」なんぞはどこ吹く風、筆不精の鏡子がなかなか手紙をよこさないから生じた心配でもある。

漱石は一方で、この日、東京・根岸の子規庵で寝たきりの闘病生活を送っている正岡子規へ、12枚のロンドンの絵葉書を送っている。若い頃から旅好きで、一度は西洋にも行ってみたいと言っていた親友・子規への、せめてもの贈り物であった。

妻を思い、友を思いながら、懸命に留学生活を続けている34歳の漱石先生である。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。

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