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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。

■今日の漱石「心の言葉」

先生を敬うこと、父に対する如し。先生もまた弟子に対すること、真の子の如し。これでなくては真の教育ということはできない(『愚見数則』より)

漱石自筆の「秋景山水図」(大正4年)。漱石の山水画の中でも、円熟味のある作品といわれる。写真/神奈川近代文学館所蔵

漱石自筆の「秋景山水図」(大正4年)。漱石の山水画の中でも、円熟味のある作品といわれる。写真/県立神奈川近代文学館所蔵


【1915年3月4日の漱石】

今から101 年前の今日、すなわち大正4年(1915)3月4日、漱石山房の木曜会には、門下生たちが集っていた。漱石山房とは、漱石が教職を辞して東京朝日新聞社に専属作家として入社した明治40年の9月から没するまでの10年間を過ごした旧居である。集まった門弟は、小宮豊隆、松浦嘉一、森田草平、久米正雄。漱石は彼らに向かって一幅の掛け軸を示した。先頃、門下生のひとりである岩波茂雄からもらった、室町時代後期の画僧・雪舟(せっしゅう)の墨絵であった。

岩波茂雄は東京帝国大学哲学科の出身。2年前に古書店の岩波書店を起こした。出版業へ進出したいというこの若者の志を応援するため、漱石は半年前、朝日新聞に連載した小説『心』(『こころ』『こゝろ』とも記述される)の単行本を、ほとんど自費出版のような形で岩波書店から刊行した。これを実質的な出発点にして、いまに続く老舗出版社「岩波書店」がスタートしたのである。

雪舟の墨絵を見て、皆は一様に感嘆の声をもらした。漱石が口を開く。

「狩野探幽(かのうたんゆう)、俵屋宗達(たわらやそうたつ)、尾形光琳(おがたこうりん)といった人たちの一派に比べると、雪舟の方が気品が高いように思う」

この時期、人間臭さを離れ、人情を取り除いたような雪舟の作風が、漱石を魅了していたらしい。文学の仕事が、人情と密接したものであるがゆえ、正反対の趣に惹かれた面もあったのだろうか。漱石はさらにこんなふうに続けた。

「動くということは下品なものだ。動くよりじっとしている方が品がよい。だから、文学や音楽は動かない絵より下品なものと言えるかもしれない」

漱石の美術趣味は一朝一夕のものではなく、幼少期にまでさかのぼる。随筆『思ひ出す事など』の中に、こんな一節がある。

《小供(こども)のとき家に五六十幅の画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干(むしぼし)の折に、余(よ)は交(かわ)るがわるそれを見た。そうして懸物(かけもの)の前に独り蹲踞(うずく)まって、黙然と時を過ごすのを楽(たのしみ)とした》

文中の「余」は「私」の意味。要は、名主であった漱石の生家にはたくさんの軸物の絵画があって、漱石は幼い頃からそれに親しんだというのだ。これらは、いわゆる日本画であろう。その後、漱石は美術館見学や美術雑誌、画集の講読などを通して、和洋の絵画にふれて趣味を深めた。近年、人気の高い伊藤若冲(じゃくちゅう)を先駆的に評価してもいる。

この頃に漱石が描いた『秋景山水図』なども、雪舟の山水画を含め、様々な美術作品を味わった上での取り組みだったに違いない。

漱石と門弟たちとの間に、絵画をめぐるこうした会話のなされている部屋の片隅には、この日、門弟のひとり寺田寅彦から返送されてきたトランクが置かれていた。大きくて頑丈なこのトランクは、漱石が英国留学時に使ったもので、その後、寅彦の欧州留学に貸し出された。寅彦から返却されたそのトランクは、今度は米国へ行く門弟の野間真綱に貸す手筈となっていた。

漱石先生が愛用したトランクが、門弟たちの孤独な異国暮らしに、大きな慰めと励ましを与えたことは容易に想像できる。異境の地で、ふとそのトランクを眺めると、まるでそこに師の漱石がいてくれるような温かな思いが、彼らの胸にわきあがったことだろう。

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。

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