サライ.jp

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

明るいのがよい。暖かいのがよい(『文士の生活』より)

WKTK6792

丸善 日本橋店。多くの洋書を取り扱う丸善は、近代知識人にとって、西洋に開かれた窓のような存在だったといえるだろう。梶井基次郎の名作『檸檬』は、京都の丸善を舞台とする。


【1909年3月2日の漱石】

東京・早稲田南町の自宅を出て、ふらりと町中を散策すると、飾り雛を売る店が華やかだった。桜の造花も目につく。魚屋の店先には、青笹を敷いた上に鯛とサザエと蛤を盛った籠(かご)が並んでいた。赤く塗った蒲鉾(かまぼこ)もたくさん置いてある。花屋では、赤い桃の花を竹筒に挿している。

数え43歳の漱石の目には、それらすべてが春めいて映った。はらはらと落ちてくるにわか雨にさえ、ほのかな春の香りが感じられる。今から107 年前の今日、すなわち明治42年(1909)3月2日のことである。

漱石は心の中で、「冬が去ってようやく生き返った。どこかへ行って1日遊び暮らしたいような気分だ」と、呟いてみるのだった。

帰宅すると、鹿児島の第七高等学校に赴任している門弟の皆川正禧から、ザボンの皮の砂糖漬けの罐詰が届いていた。細かく切って食べると美味だが、つい食べ過ぎてしまうので、弱っている胃に負担がかかる気がする。ならば、自制するしかないのだが、おいしそうな甘いものを前にすると、なかなか我慢がきかない漱石。つい手を出してしまうのだった。

翌日ものどかな天気で、漱石は、英国に留学する小松原隆二を新橋駅で見送った。小松原は東大英文科の出身。残された手紙の記述からすると、どうもザボンの送り主と同じく、鹿児島七高の教壇に立っていた人物らしい。

小松原を見送ったあと、漱石は日本橋の丸善に立ち寄った。赤煉瓦造りの4階建て、エレベーターつきの近代的な構えが完成するのはこの翌年(明治43年5月)だが、書籍や雑誌、文具をはじめ、さまざまな輸入品を取り扱っている丸善は、当時の知識人にとって頼りがいのある存在だった。漱石は後年、小説『心』にも、こんな一節を綴っている。

《私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。(略)必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善の二階で潰(つぶ)す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅迄一冊ずつ点検して行った》

このとき丸善に立ち寄った漱石が買い求めたのは、4冊の本。フランス人作家ブルージェとバザンの小説の英訳本だった。皆川正禧へのザボンの礼状は、その帰宅後にしたためられた。

《ザボンの罐詰(かんづめ)着、ありがとう。(略)この一週間程少々閑適で生命が延びつつある。それに春風が何よりの薬だ。鶯が時々鳴く、あれは好(よ)いものだ。西洋人は知らないものだ》

ヨーロッパには日本ほどの明快かつ繊細な四季の味わいはないし、またそれを味わい尽くす東洋的感性も乏しい。留学中の漱石は、現地で人を雪見に誘ったり、月の趣深さを語り聞かせようとして、理解されずに笑われたという体験もあったようだ。

霧の都ロンドンでの日々を経たからこそ、なお一層、うららかな日本の春を愛する漱石先生だった。

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
10月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア