『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ(『虞美人草』より)
【1907年2月24日の漱石】
今から109年前の今日、すなわち明治40年(1907)2月24日、漱石は東京・西片町の自宅で、ひとりの若者の訪問を受けていた。若者の名は白仁三郎(しらに・さぶろう、のちの能楽評論家で国文学者の坂元雪鳥)。白仁は東大国文科の学生ながら朝日新聞によく寄稿していて、この日はある使命を帯びてやってきているのであった。
「先生は、場合によっては、大学も高等学校もお辞めになることはできますか?」
若者の唐突な問いかけに、漱石は戸惑いながらもうなずいた。若者はさらに突っこんで、文部省給費の留学に対する義務年限の有無についても質問してくる。
「とくに規定はない。自分としては、2年の英国留学に対して、その倍となる4年を(教師として)務めれば義務年限は終わるものと考える。この3月でちょうどその4年になる」
漱石は、そんなふうに答えた。若者はさらに、読売新聞と漱石の間に特段の契約もないことを確認した上で、とうとう切り出した。
「じつは、朝日新聞社でぜひ先生に御入社を願いたいという話があるのですが…」
もちろん、新聞記者になってくれという話ではない。身分は朝日新聞の社員だが出社義務はなく、専属契約の在宅勤務のような形で、朝日新聞に小説や評論などを書いてほしいというのであった。当時は、こういう形で作家が新聞社と社員契約を交わすことは、さほど珍しいことではなかった。
漱石は即答はさけ、「考えてみよう」と応じた。教職を辞して執筆に専念したい思いはあったが、家族を養う大黒柱として、様々な条件を突き詰めて冷静に考えてみる必要があった。当然、妻の鏡子にも相談せねばならないことだった。
「交渉有望」と受け止めた若者は、早々に漱石邸をあとにし、すぐ近所の二葉亭四迷の家へ向かった。小説家・翻訳家として知られる四迷は朝日新聞の社員でもあった。四迷の場合は自身の希望で、小説などを発表するだけでなく、ロシア特派員として働きたい思いを持ち続けていた。
四迷の家には、通信部長の弓削田精一(ゆげた・せいいち)と社会部長の渋川玄耳(しぶかわ・げんじ)もつめていて、吉報がもたらされるのを今か今かと待ち受けていた。夏目漱石の文名はそれだけ高かったのである。朝日入社が実現すれば、それはひとつのニュースであり、また、より多くの読者も獲得できるだろうと関係者は皆、考えていたのだった。
時に漱石、数え41歳。不惑を過ぎて、大きな転機が訪れようとしていた。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。
