『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来となってあらわれる(『日記』明治34年3月21日より)
【1916年2月19日の漱石】
今から100年前の今日、すなわち大正5年(1916)2月19日朝、漱石は筆と墨を使い巻紙にすらすらと達筆の文字を書き連ねていた。東京帝国大学の英文科に在籍する芥川龍之介に宛てて、手紙を書いているのだった。漱石の傍らには、読み終えたばかりの同人誌『新思潮』(第4次)の創刊号が置いてあった。龍之介は、前年12月に紹介者とともに漱石山房を訪れ、以来、木曜会(漱石の教え子や門下生が集まって様々な議論をした会合)に顔を出すようになった新しい漱石の門下生であった。
《あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくって、自然そのままの可笑味(おかしみ)がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新らしいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。しかし「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないで、ずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です》
芥川龍之介の短編小説『鼻』を激賞する、日本文学史上、不可欠の手紙である。
この手紙によって、まだ一介の文学青年に過ぎなかった龍之介は大きな自信を得た。創作に取り組む心構えというものも教えられた。加えて、このあと続けて、一流雑誌の『新小説』や『中央公論』から龍之介のもとに執筆依頼が舞い込む。これも漱石の推薦があったことは想像に難くない。前者は漱石門下の鈴木三重吉が編集顧問に名を連ね、後者は漱石山房に頻繁に出入りしていた滝田樗陰(たきた・ちょいん)が編集長をつとめていた。
こうして、まもなく龍之介は大正文壇の寵児となっていく。のちに、この時期のことを回想し、龍之介は次のように書いている。
《夜は次第に明けて行った。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡していた。市場に群(むらが)った人々や車はいづれも薔薇色に染まり出した》(『或阿呆の一生』)
漱石のもとに出入りする前の龍之介は、『羅生門』などの佳作を発表しても、仲間うちからもまったく評価されなかった。それどころか、かえって「小説を書くのはもうやめたらどうか」と意見の手紙を出してくる者まであったのである。
ちなみに、『新思潮』は、明治40年(1907)に小山内薫によって創刊された文芸同人雑誌。その後、代替わりしつつ引き継がれていた。芥川龍之介、久米正雄、成瀬正一、松岡譲、菊池寛の5人を同人とする第4次『新思潮』は、大正5年2月15日に創刊され、すぐに漱石のもとに送られていたのである。
次代を担う新しい才能の登場。数え50歳の漱石先生の胸にも、静かな喜びがこみ上げていた。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。
