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夏目漱石、原稿に追われ横山大観が同席する酒宴をやむなく断る。【日めくり漱石/2月12日】

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

浮世はウンウン働くものに候(『書簡』明治37年7月20日より)

伊予紋から届いた笹川臨風の書状に対して、漱石がしたためた返書(明治45年2月20日付)。写真/神奈川近代文学館蔵

伊予紋から届いた笹川臨風の書状に対して、漱石がしたためた返書(明治45年2月20日付)。写真/県立神奈川近代文学館所蔵


【1908年2月12日の漱石】

今から104年前の今日、すなわち明治45年(1912)2月12日、45歳の漱石は座机の上に広げた特製の19字詰め10行の原稿用紙に、つけペンで原稿を書いていた。机の右上にはセピア色のインクの入ったインク壺が置かれている。朝日新聞紙上に連載中の『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の原稿を書いているのだった。

大概は多少の余裕を持ちながら筆を進める漱石だが、ここ何日かは書いた分を片端から組版にまわしていくような切迫した状態に追い込まれていた。

今日中に仕上げなければならない分の原稿を半分ほど書いた頃、能楽師の宝生新(ほうしょう・しん)がやってきた。宝生新は美声で知られた宝生流のワキの名人。俳人で小説家の高浜虚子の紹介で、4年ほど前から謡(うたい)の稽古をつけてもらっているのだった。この師匠はかなり気まぐれなところがあり、約束の日に現れなかったりすることもある。この日のように、予定通り稽古してもらえる機会は貴重だった。漱石は原稿の締め切りを気にしながらも、しばしペンを置く。

稽古が終わったのは午後4時頃だった。漱石は再び机に向かい、奮闘する。事務処理ではないから、急ごうにも急げるものでもない。ようやく原稿を書き上げたのは夜の8時半過ぎだった。原稿はそのまま、使いの者によって新聞社へと届けられた。漱石はほっとひと息つくとともに、どっと疲れを感じた。

この晩、漱石は、歴史家で俳人の笹川臨風から上野にある割烹料理屋「伊予紋」に招待されていた。仕事の状況が状況なので、難しいと返事はしてあった。けれど、画家の横山大観も来るという話で、絵画好きの漱石先生としては、もしうまく原稿の片がつくようなら出かけたいと思っていた。だが、もはや時間的に遅すぎるし、出かけていく元気もない。致し方なかった。

翌日、伊予紋から出された臨風の書状が届いた。見ると、そこには、同席した綺麗どころの文字までが並んでいるではないか。漱石は苦笑とともにそれを読み終え、さっそくこんな返書をしたためるのだった。

《御状(おんじょう)拝見 あゝ美人迄御揃(おそろい)にて敬意を表されては大に恐縮致候(略)小説をやめて高等遊民として存在する工夫  色々勘考中に候へども名案もなく苦しがり居(おり)候》
夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。

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