サライ.jp

文/砂原浩太朗(小説家)

今川義元と桶狭間の戦い~凡将にあらず【にっぽん歴史夜話28】

近年、戦国史の見直しが目覚ましいほどにすすんでいる。武将への再評価もさかんであり、桶狭間で織田信長に敗れた今川義元(1519~60)などは、その好例だろう。かつては軟弱な凡将のように語られていたが、現在はかなりの復権が果たされている。また、桶狭間の戦いそのものについても、解釈の変わってきた部分が多い。本稿では、戦国屈指の合戦ともいうべき桶狭間と今川義元像の「現在」を紹介する。

花蔵の乱~家督あらそいを制して当主に

今川家は足利氏の支流にあたり、駿河・遠江(ともに静岡県)をおさめる名族。義元は父・氏親の5男(異説あり)として生を享けた。ちなみに氏親の母、つまり義元にとって祖母にあたる女性が北条早雲の姉(従来は妹とされていた)である。後述する北条家との結びつきは、ここに端を発しているわけだ。

家を継ぐ身でなかった義元はおさなくして寺にはいり、仏道修行にはげむ。このとき指導にあたったのが、のち彼の片腕となる太原雪斎(たいげんせっさい。1496~1555)だから、奇縁というしかない。雪斎は今川の家臣すじにあたる武家の出で、僧侶ながら軍略・政略に秀でた傑物だった。また義元には、雪斎とともに都で修行を積んだ時期もあり、この経験が京文化への造詣を深くしたことは容易に想像できる。

18歳のとき、当主となっていた長兄が没し、義元とやはり出家していた庶兄・玄広恵探(げんこうえたん)のあいだに家督あらそいが起こる。これを花蔵(はなぐら)の乱といい、家中を二分する政争となった。雪斎のはたらきかけもあって義元が幕府から相続者として認められ、これを不服とする恵探を追討。彼の敗死をもって乱は義元方の勝利におわるが、くわしい経緯には不明な点が多い。長兄および次兄(恵探とは別人)が同日に死亡したというのも謎のひとつ。とうてい偶然とは思えぬ事態であり、何者かがたくらんだことではと疑いたくなる。が、どう推理するにせよ、憶測の域を出ないのもたしかである。

「三国同盟」の虚実

還俗し家督を継いだ義元は、雪斎を右腕として領国経営に乗りだす。まずは甲斐(山梨県)の武田信虎(信玄の父)と結び、その娘を妻とした。このため同盟関係にあった北条との仲が悪化し、10年におよぶ兵乱を招いたというのが従来の見方。いっぽう、花蔵の乱に際し、武田が義元を支援し、北条は恵探についたのではないかという説も示されている。義元の婚姻=武田との同盟は、はやくも家督を継いだ翌年だから、状況証拠ではあるが説得力を感じる見方といえるだろう。

いずれにせよ、北条がさかんに駿河の東部を侵したのは事実である。およそ10年を経てようやく和議にこぎつけ、東の憂いをなくした義元は、雪斎を大将として西方への侵攻を開始する。三河(愛知県)の松平広忠(徳川家康の父)を傘下とし、尾張(愛知県)の織田信秀(信長の父)とあらそった。

西方に全力を集中するためだろう、義元は武田・北条との三国同盟をむすぶ。前述のように、義元夫人はもともと武田の出だったが、これにくわえて嫡子・氏真に北条の姫を、武田にみずからの娘を、北条には武田の姫をめあわせたのである。なお、三家の当主が駿河の善徳寺(静岡県富士市)で一堂に会したという話がよく知られ、幾度か映像化もされているが、これは軍記物語だけに見えるもので、史実ではないと考えられている。

桶狭間の戦い~上洛説の変貌

雪斎の補佐よろしきを得て駿河の国は富み栄え、義元は「海道(東海道の意)一の弓取り」と称された。彼の人となりをつたえるエピソードはあまり残っていないが、つぎの話がよく知られている。偵察を命じた家臣が、一戦におよんで首級を持ち帰った。義元は功にはやり命にそむいたとして、この武士を叱責したが、とっさに古歌を引いて釈明したことを愛で罪をゆるしたという。文化人として教養の高さがうかがえる挿話だろう。また、遊惰にふけるわが子・氏真に「文武をおろそかにしては、国が亡びる」と諭しているところから、バランス感覚に富んだ人物だったと思える。頻繁に検地をおこない、法を整備しているから、内政にも心をくだいていたことがわかる。

ちなみに、越前(福井県)・朝倉家の柱石として知られる朝倉宗滴(そうてき。1474~1555。第27回参照)は、評価する大名のひとりとして義元を挙げている。当代の名将とたたえられた人物の見識だから、信をおいていい。が、同時に織田信長の名も挙げているところが、なんとも暗示に富んでいるというべきか。

1560年、義元は4万とも号される大軍をひきいて、みずから尾張へ侵攻した。実数は2万5000ほどと見られているが、迎え撃つ織田軍は2000から3000というところだから、10倍もの開きがあるのは間違いない。今川軍の中枢ともいうべき雪斎は5年前に没していた。

かつて、この侵攻は義元が上洛を果たし、天下へ号令する意図によるとされてきた。だが近年は、尾張の攻略や三河の安定をめざすなど、より具体的な軍事行動だったと目されている。じっさい、衰えたりとはいえ足利将軍も健在であり、後年秀吉や家康が成し遂げたような天下統一という発想はまだ存在していなかっただろう。ただ、当時は信長や美濃(岐阜県)の斎藤氏など各地の大名がさかんに京へのぼり、将軍に拝謁を果たしている時期でもある。義元が遠からず上洛する肚であったとしても、ふしぎはない。が、上洛の是非はべつとして、眼前に立ちふさがる信長を一蹴するつもりであったことは、たしかと思われる。

決戦~奇襲から正面突破説へ

決戦に先立ち、松平元康(のちの徳川家康)ら配下の武将が、最前線である織田方の砦を落とす。桶狭間山に本陣を据えた義元は戦勝をよろこび、謡をうたうなどしてくつろいださまを見せた。桶狭間山の厳密な場所は特定されていないが、筆者も拙作「いのちがけ」で桶狭間の戦いを描いた際、周辺へ足を運んだことがある。標高数十メートル程度の小丘がいくつもつらなっているあたりだから、そのどこかであろう。

かつては窪地に陣をしいたという説が信じられてきたが、じっさいは丘の上に布陣しているわけだから、兵法の定石にのっとっている。義元があやまちをおかしたわけではなかった。とはいえ、緒戦の勝利にいくらか気がゆるんだのも事実だろう。砦の攻略などに兵を割き、本陣が手薄になっていた可能性も高い。信長はここを突いた。これも従来は横合いからおおきく迂回しての奇襲作戦と伝えられてきたが、現在は正面突破という説が有力。前述の拙作もその前提で描いている。もっとも、これだけの戦力差がありながら正面から来るとは思わぬだろうから、奇襲に勝るおどろきがあったに違いない。義元はじめ3000人におよぶ死者を出す完敗だった。こののち今川家は衰微し、跡を継いだ氏真は10年を経ずして領国をうしなう。最後は家康に保護され、かろうじて家名の存続をゆるされたのだった。

日本史上、敗者の代表ともいえる今川義元だが、その像は長年にわたってゆがめられてきた。かつては公家のようなビジュアルで映像作品に登場することも多かったが、これには史料的な根拠がない。京文化への造詣が深かったのは確かだから、そこから柔弱な凡将像を作り出したのだろう。とくに戦後広まった信長人気の裏返しともいえる。

ただ雪斎の存命中は義元が軍をひきいることは多くなかったため、彼自身の軍事センスは判断しがたいところがある。桶狭間の折はあきらかに油断が生じていたと思われるから、名将とまでは呼びにくいのも事実。が、軍勢の数からわかるように、彼の統治下で駿河・遠江の国力はいや増し、今川の全盛期を迎えていた。その繁栄をもたらした義元は、公平に見て名領主というべきだろう。

義元もそうだが、敗者はつねに愚かしく描かれがちであり、実像以上におとしめられる例が多い。歴史をひもとく際、このことはつねに念頭へ置きたいと思うのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

関連記事

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
12月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア