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『麒麟がくる』光秀、波乱の人生最期の城までの軌跡|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【明智光秀編】~その2~

写真・文/藪内成基

戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。

今回は、謎に包まれた前半生を過ごし、放浪時代を経て織田信長に見いだされるものの本能寺の変で信長を討ち、豊臣(羽柴)秀吉との争いに敗れた明智光秀(あけちみつひで)を取り上げます。

【~その1~はこちら

黒井城に籠る「丹波の赤鬼」と対決

足利義昭と織田信長の関係は次第に悪化をたどり、元亀4年(1573)、ついに義昭は信長に対し挙兵します。細川藤孝と明智光秀は義昭を見限って信長側として参戦し、義昭の降伏をもって室町幕府は滅亡に追い込まれました。その後、光秀は信長の家臣として活躍し、重臣に抜擢されて多忙を極めるようになります。

天正3年(1575)には、高屋城の戦い(大阪府羽曳野市)、長篠の戦い(愛知県新城市)、越前一向一揆との戦いに転戦する中、丹波平定の総大将に光秀が命じられます。

目指す先は、「丹波の赤鬼」こと荻野(赤井)悪右衛門が守る黒井城(兵庫県丹波市)。悪右衛門は、黒井城の改修や城下町の整備に着手し、丹波国全体に勢力を拡大しました。勢いに乗る信長に一度は従うものの、敵対した人物です。光秀は悪右衛門が籠る黒井城を約2か月間包囲するものの、光秀に従っていた丹波の国人・波多野秀治の裏切りにより、光秀軍は壊滅的な打撃を受け敗走してしまいます。

その後も悪右衛門は武田勝頼や石山本願寺、毛利氏らと意を通じ、信長に対抗するものの、天正6年(1578)に病死。悪右衛門の子・直義の後見として弟の幸家が一族を指揮するものの、翌年にはついに落城し、光秀の丹波攻略は完了しました。

黒井城には光秀の重臣・斎藤利三が入り、領内の治安と復興に力を注ぎました。黒井城麓の陣屋で利三の子として生まれた「お福」は、後の春日局(3代将軍・徳川家光の乳母)といわれています。

黒井城本丸には、自然の石を荒々しく積み上げた野面積みの石垣が残る

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JR黒井駅前広場に立つ「お福の像」。斎藤利三の末娘とされる

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丹波平定の拠点としての丹波亀山城

天正5 年(1577)頃、明智光秀は黒井城攻略と並行しながら、丹波平定の拠点として丹波亀山城(京都府亀岡市)の築城に着手します。

「亀山」は、山陰道の要衝として、古くから丹波の政治、経済、文化の中心地でした。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せて城下町を形成し、敵からの侵入を防ぐために、「土塁」と「堀」で城下町を取り囲む惣構を目指しました。天正5年(1577)の明智光秀書状に「亀山惣堀普請申付候」と記録があり、光秀が城主の時に造成が開始されたと考えられています。

その後、秀吉の親族である小早川秀秋が城主となって二ノ丸と三ノ丸を造成し、北条氏勝が城主の慶長年間に惣構が完成したとされています。現在、当時の様子を物語る地形や景観はわずかに残るばかりですが、丹波亀山城の外堀跡にあたる南郷池公園は、憩いの公園として親しまれています。

また、丹波亀山城と同時期に築かれた城として、周山城(京都府京都市右京区)も光秀が築いたとされています。築城年代は不明ですが、京と若狭(現在の福井県)を結ぶ周山街道沿いの要衝を押さえていました。

2019年、南郷池公園の光秀(シャチホコ)広場に建立された「明智光秀公像」

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丹波を平定し、福知山城を築く

丹波平定後の天正7年(1579)、明智光秀は丹波の拠点として福智(知)山城を築きました。黒井城主・荻野直正の影響下にあった塩見氏(横山氏)の本拠地であった横山城を改修し。由良川と土師川の合流点にある小高い丘陵地に築き、城代として娘婿の明智秀満を配置しました。

福智山を流れる由良川の氾濫を防ぐために、「明智藪」と呼ばれる堤防を築き、由良川の流れを大きく北に付け替えるという大規模な治水工事を実施しました。さらに城下町を建設し、商業を活性化するため、地子銭(屋敷にかかる税)を免除するなどの政策をとりました。

現在の福知山城天守は昭和の再建。元来の外観にならい古式の望楼型が採用されている

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福知山城の石垣には寺社からの転用石が数多く使われているのも特徴だ

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筒井順慶の大和郡山城を見廻る

天正8年(1580)頃、筒井順慶が信長から大和守守護職を与えられ、大和郡山城の築城に着手しました。松永久秀が築いた多聞山城(奈良県奈良市)から大石を運び、奈良一体の大工を招集して造ったとされ、この時、明智光秀も見廻りに来たといわれています。

順慶と言えば、光秀と関係が深い「洞が峠」のエピソードで知られます。本能寺の変後に光秀は諸将に協力を求めるものの拒否され、頼むは順慶だけとなりました。順慶は光秀に味方するようにみせかけて摂津・山城の境にある洞が峠で戦況を見守り、光秀の敗色が濃くなったのを見届けて秀吉に味方しました。この出来事から、日和見主義を「洞が峠」や「順慶流」と呼ぶようになったとされています。

【本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉に敗れる。次ページに続きます】

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