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ミステリアスな『麒麟がくる』主人公・光秀の足跡を追う|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【明智光秀編】~その1~

写真・文/藪内成基

戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。

今回は、謎に包まれた前半生を過ごし、放浪時代を経て織田信長に見いだされるものの本能寺の変で信長を討ち、豊臣(羽柴)秀吉との争いに敗れた明智光秀(あけちみつひで)を取り上げます。

明智光秀はどの城で育ったのか?

本能寺の変で知られる明智光秀は、生年さえもはっきりとしないミステリアスな人物。通説では、享禄元年(1528)生まれですが、永正13年(1516)や天文9年(1540)などといった説もあります。

生年だけでなく、父親の名前も明確ではない光秀にとって、生誕地にも諸説あります。例えば、岐阜県恵那市明智町の落合砦(土岐明智城・多羅砦)には光秀の産湯として使ったとされる井戸が残り、光秀や土岐明智氏に関する伝承が語り継がれています。

また、岐阜県可児市の美濃長山城は、光秀が生まれてから落城までの約30年を過ごした地とされています。康永元年(1342)頃、美濃の守護一族であった土岐頼兼が築城し、光秀の叔父にあたる光安・光久が城主を務めた弘治2年(1556)に落城したとされています。

近江(滋賀県)生誕説もあり、幼少期の光秀が過ごした城はどこか、はっきりしないのが実情です。いつしか「美濃のマムシ」こと斎藤道三に仕えるものの、道三と息子・斎藤義龍が争った長良川の戦いには加わらず、美濃を離れることになります。

明知鉄道明智駅(岐阜県恵那市明智町)前に立つ「明智光秀公ゆかりの地」の石碑

明知鉄道明智駅(岐阜県恵那市明智町)前に立つ「明智光秀公ゆかりの地」の石碑

光秀が仕えた斎藤道三の稲葉山城跡地に信長が岐阜城を築いた

光秀が仕えた斎藤道三の稲葉山城跡地に信長が岐阜城を築いた

越前の朝倉義景を頼り、足利義昭と出会う

美濃を離れた明智光秀は、一乗谷城(福井県福井市)を中心に朝倉義景が治めていた越前へと向かいます。光秀は大手筋にあたる東大味に5年間住み、ここで、娘の玉(後のガラシャ)が生まれたとされています。

越前滞在中、光秀は大きなターニングポイントを迎えます。永禄8年(1565)、三好三人衆や松永久秀らによって、13代将軍・足利義輝が殺害される大事件が起きました。義輝と朝倉家が親密な関係であったことから、奈良の興福寺一乗院に入っていた義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)は、義景らの尽力によって近江へと逃亡しました。

その後、義昭は義景を頼り、越前で約3年間逗留します。義昭は当初、近江に近い敦賀に滞在しましたが、永禄10年(1567)に加賀と越前の和睦が成立すると、一乗谷で最も大きな寺院のひとつ安養寺に移りました。義景は義昭を親身になって後見し、元服の儀まで行なうほどでした。

この頃、義昭の家臣・細川藤孝(後の細川幽斎)を通して、光秀は義昭にも仕えるようになります。藤孝を取次ぎとして、義昭は尾張の織田信長との間で京都復帰に向けた交渉を進め、光秀も藤孝の元で信長との交渉を担ったとされます。

朝倉義景館跡は一乗谷城を背にして三方向に堀と土塁をめぐらした

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一乗谷は全国で6例しかない特別史跡・特別名勝・重要文化財の三重指定を受けた戦国城下町跡

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信長の危機を救った「金ヶ崎の退き口」

永禄11年(1568)、なかなか上洛の動きを見せようとしない朝倉義景を見限り、足利義昭は尾張から美濃に移った織田信長を頼ります。その後、義昭は上洛を遂げて室町幕府15代将軍に就任し、光秀も義昭に従い京に入りました。

【次ページに続きます】

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