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『麒麟がくる』で描かれる時代は、全国的に戦国下剋上の時代だった。名門若狭武田氏が本拠とした後瀬山城も例外ではなかった。風雲急を告げる情勢の中で若狭武田家はどのような戦略をとったのか。福井県小浜市教育委員会の西島伸彦氏がリポートする。

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文/西島伸彦(福井県小浜市教育委員会学芸員)

若狭屈指の山城「後瀬山城」石垣

若狭屈指の山城「後瀬山城」石垣

若狭守護職は初代信栄(のぶひで)以降、信賢(のぶかた)、国信(くにのぶ)、元信(もとのぶ)、元光(もとみつ)、信豊(のぶとよ)、義統(よしむね)、元明(もとあき)と続き(呼び方・家督相続者に諸説あり)、約130年にわたり若狭を統治しました。

若狭武田氏歴代でも信賢は、応仁・文明の乱に際して東軍(細川勝元(かつもと)側)の副将を勤めるなど活躍し、国信も応仁・文明の乱で将として活躍しました。元信は朝廷や幕府と密接に繋がり従三位まで昇進しました。この頃が若狭武田氏の絶頂期であったと考えられます。

元光・信豊・義統・元明の治世では、国内外での戦乱に対処する間に次第に若狭武田氏の勢力は衰え、永禄11年(1568)朝倉義景(よしかげ)の軍勢が若狭へ侵攻した際後瀬山城を攻撃し、元明を越前へ連れ去りました。

この頃にはすでに織田信長の勢力が若狭に及んでおり、国内の武田家の家臣や幕府奉公衆の中には意を通じた者も多く、元亀元年(1570)の越前攻略には若狭衆として先陣を勤めていることがわかっています。

若狭衆は、この年朝倉攻めのため若狭へ入る織田勢を熊川まで迎えに出ており、明智光秀は織田信長が熊川に到着して越前に向かう前に熊川を訪れたとされています。

年不詳の信長奉行人連署奉書では、元明に結集して忠節を尽くすよう武田旧臣に求めており、羽柴秀吉・丹羽(にわ)長秀(ながひで)・中川重(しげ)政(まさ)・明智光秀の署名が見られます。天正元年(1573)には丹羽長秀が若狭を領することとなり、国人衆の多くは長秀に従っています。

初代武田信栄以来若狭を支配した若狭武田氏の滅亡

もはや元明に若狭守護の威光はなく、朝倉氏滅亡の前後頃に若狭へ帰ったものと思われ、天正9年(1581)信長から高浜逸見(へんみ)氏の旧領の内3000石を宛がわれて辛うじてその名望を保ちました。

しかし、天正10年(1582)、京都の本能寺で明智光秀に織田信長が討たれるという本能寺の変が起こり、まもなく山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉によって光秀が滅ぼされると、元明は光秀に同心したということで近江海津の法憧院に呼び出され、天正10年7月丹羽長秀によって生害させられました。これによって初代武田信栄以来若狭を支配した若狭武田氏は滅亡しました。

若狭武田氏は守護としての使命から幕府への忠勤に励んだ結果衰退したともいえますが、その反面、多くの貴族・文人と関わりを持ち、武田家伝の故実継承だけでなく文芸面でも華々しい成果を残し、現在まで受け継がれる若狭の文化の基礎を築いたと言えます。

後瀬山は、万葉集に詠まれた大伴家持(おおとものやかもち)と大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえおおいらつめ)の贈答歌などで名高い名山です。坂上大嬢は「かにかくに人は言ふとも若狭路の後瀬の山の後も逢はむ君」という歌を贈り、大伴家持は「後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ」という歌を返したとして恋の歌の舞台としても知られています。

後瀬山城からの眺望

後瀬山城からの眺望

後瀬山城跡は若狭最大級の山城で、若狭守護として5代目となる元光が大永2年(1522)小浜市街地の南に聳える後瀬山の山上に城郭を築き始め、北側山麓にあった日蓮宗長源寺を向島に移して居館を建設しました。この山城と守護居館は、合わせて後瀬山城跡として国史跡に指定されています。後瀬山城跡は若狭を東西に通過する丹後街道を足下におき、小浜湊を眼下に見下ろせる場所に築かれています。

若狭最大級の山城、後瀬山城

このような経済的にも軍事的にも適した場所に設置することにより、長年争っている丹後一色氏の残党が小浜に入ってくるのを防ぐとともに、日本海交易の主要港となっていた小浜湊の経済力を掌握する意図があったものと思われます。

この後瀬山の稜線に沿って城郭北西部に畝状竪堀(うねじょうたてぼり)や大規模な竪掘を配し、西側への防御を密にした遺構配置を行っており、これは武田氏が若狭守護に任命されて以来度々確執を招く丹後一色氏を意識していることが見受けられます。

東稜線上と北西稜線上に配置される連郭群は切岸(きりぎし)により区画されており、主要な部分において堀切(ほりきり)を用いています。またこの連郭群は谷の横道(よこみち)と形容される連続した連絡道路により連結されています。主郭には愛宕神社が鎮座し、社殿は京極(きょうごく)氏によって創建されました。主郭外郭の石積みはいわゆる穴太(あのう)積みと考えられ、これは築城当初のものではなく、天正10年(1582)丹羽の命により補強された可能性が考えられます。

昭和63年小浜市教育委員会により主郭北西部の曲輪(くるわ)において確認調査が実施され、土塁、礎石建物跡、築山等が確認されています。その結果、礎石建物や土塁は2時期にわたって造成されたことが遺構の切り合いからわかっており、出土遺物の検討から天正年中に再築がなされたと考えられます。また、庭園の築山に見立てている遺構は、他に浜松市の鳥羽山城跡、姫路市の置塩城跡等で確認されています。

守護武田家の広大な守護所跡

守護武田家の広大な守護所跡

守護居館は、文献や古絵図等の検討から旧小浜小学校跡地に存在することが以前より指摘されていました。平成18年度から平成25年度まで継続的に内容確認調査を実施したところ、館跡の西側と北側で堀跡が検出され、東側については不明ながら館を画す堀跡が確認されています。館跡内からは礎石建物跡、掘立柱建物跡、土蔵状遺構等が確認されています。これらの調査により、若狭武田氏館跡は西側と北側に堀を巡らせた台形状を呈するプランを持つことがわかりました。

また、真偽不明ながら、明智光秀の母は武田義統妹という説や、若州小浜鍛冶冬廣(ふゆひろ)次男という説があります。また、市内には若狭武田氏最後の当主である武田元明の正室京極竜子(たつこ)着用として伝わる具足が伝わっています。

文/西島伸彦(福井県小浜市教育委員会学芸員)

左が筆者の西島伸彦さん(右は歴史作家の安部龍太郎氏)

左が筆者の西島伸彦さん(右は歴史作家の安部龍太郎氏)

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