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文/砂原浩太朗(小説家)

明智光秀像 滋賀県・坂本城址公園

明智光秀像 滋賀県・坂本城址公園

織田信長を討った逆臣、という明智光秀(?~1582)のイメージは、20世紀の後半からしだいに変わってきた。「本能寺の変」の真相は依然、藪のなかとしても、現在ではむしろ戦国武将にまれな教養人であり、かつ愛妻家という像が出来あがりつつある。が、豊臣秀吉の正室・北政所や、前田利家の妻まつなどと異なり、光秀の妻に目が向けられることはいまだ少ない。本稿では、ごくかぎられた史料を手がかりに、語られることまれであった「明智光秀の妻」の姿を追う。

謎に満ちた光秀の前半生

歴史好きな方にはよく知られたことだが、光秀の前半生は謎につつまれている。生年も不明であり、軍記物語をもとにした1528年生まれ(本能寺のとき55歳)という記述をしばしば目にするが、根拠にとぼしい。もっとも、戦国武将の履歴などはたいていこうしたもので、たとえばおなじ織田家中の前田利家や柴田勝家も正確な生まれ年は不明である。出身地についても複数の説があるものの、美濃(岐阜県)の出であることは信じていいだろう。がんらい同地の守護であった土岐氏の一族と見られている。

その土岐氏を放逐し美濃を支配していた斎藤道三につかえたが、道三とその子・義龍があらそったおり、義龍方に攻められて居城が落ちる。かろうじて逃れた光秀は、諸国放浪ののち信長に仕えた……というのが通説だが、これらはすべて良質な史料に記載のないもので、そうした可能性もあるという以外ない。彼がはじめて歴史に登場するのは1568年。15代将軍となる足利義昭が信長の庇護をうけるに際し、間にたち交渉にあたった。このときは両者に属するような立場だったが、その後、信長の臣下になったとされる。

さて、光秀の妻はおなじ美濃の土豪・妻木氏の娘。有名な細川ガラシャ(光秀の盟友であった細川藤孝の子・忠興に嫁す)の生母であり、今につづく細川家の記録に残っていることだから、この出自は信頼していい。しばしば名を熙子(ひろこ。正しくは「熙」の字に、にすいがつく)とされるが、土豪の娘にしてはいささか雅びな名と感じる。推測だが、父の名・範熙(のりひろ)から一文字とって後世に付けられたものではないか。が、ほかに呼びようもないので、本稿でも熙子とすることをお断りしておく。

光秀の妻・熙子にまつわるエピソードあれこれ

熙子にまつわるエピソードはいくつか伝えられているが、なかでも有名なのは次のふたつだろう。光秀との婚礼が間近となったころ、彼女は天然痘にかかり、顔にあばたが残った。父がこれをはばかり、瓜ふたつの妹をかわりに嫁がせようとするが、光秀はことわって熙子を妻にむかえたという。

もうひとつは、光秀放浪時代のこと。当時の仲間同士、持ちまわりで自宅へ招きあい、馳走する習慣があった。とはいえ、貧苦にあえぐ光秀には皆へふるまう酒肴など買えるはずもない。が当日、熙子は他家にまさる馳走を用意して仲間をむかえた。おどろいて金の出どころをたずねると、自分の黒髪を売ってこしらえたという。光秀が大いに感じ入り、妻に真心を尽くしたのは言うまでもない。

ほかには、言い寄る信長を熙子が袖にしたため、光秀がさいなまれることとなり、本能寺の変をまねいたという伝承も残っている。

だが、こうして並べてみると、どれも聞いたふうな話と感じられる方が多いのではなかろうか。じっさい、あばたのエピソードは戦国末期の勇将として名高い立花宗茂(第12回参照)の実父に、おなじような話が伝わっている。よくある話だから嘘、と決めつける気はないが、これらの挿話が記されている書物は史料として信頼度の高いものではないし、愛妻譚の典型を光秀夫妻にも当てはめたと考えるのが妥当だろう。ただ、エピソードの真偽とはべつに、こうした話が残っていること自体、光秀が愛妻家と見られていた証左ではある。

じつは熙子に関してたしかな史実は、出自およびガラシャの母であること、1576年に病となったことくらいしかない。光秀の子はすべて熙子の所生と記した書もあるが、そもそも光秀の子が何人いたのかも正確には検証できておらず(確実なのは男子2人、女子3人という)、これは愛妻家イメージに引きずられた記述と考えるべきだろう。

「本能寺の変」、そのとき熙子は

本能寺の変で、あるじ信長をほろぼした光秀だが、わずか10日あまりで羽柴(のち豊臣)秀吉に敗れ、逃走のさなか非業の死をとげたのはよく知られた話である。このとき、居城・坂本(滋賀県)をまもっていた熙子は、家臣たちに金銀をあたえ落ち延びさせる。そののち、みずからは娘婿である明智秀満(しばしば光春とされるが、誤り)に命じ、いのちを絶たせたという。

興趣に満ちたストーリーではあるが、これは軍記物語などにもとづいた話。さきに少しふれたが、1576年、熙子が病となり、光秀がその治癒を祈祷させた記録がのこっている。いっぽう、おなじ年に光秀の妻が没したという資料も存在するから、夫の願いむなしく病で亡くなったと考えるのが自然である。

この年は本能寺に先立つこと6年、光秀は都にちかい近江を所領とし、織田家のなかでも一、二をあらそう出世がしらとなっていた。光秀の放浪生活をささえたという話が本当なら、熙子はみずからの苦労がむくわれ、夫がひとかどの武士となった姿を満ち足りた思いで見ていたことだろう。前述の祈祷にしても、さきに光秀が病にかかったのを熙子が平癒祈願し、ぶじ癒えたのち今度は彼女が病んで……という流れである。気づかいあうふたりの心もちを感じずにはいられない。

筆者も小説家であるから、しばしば史実そのものより通説の方に魅力を感じることも多い。が、熙子の最期に関しては、すすんで史実のほうを採りたい思いに駆られる。そこにあるのは、一組のしあわせな夫婦の姿である。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

 

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