『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
芸術家が孤独に安んぜられるほどの度胸があったら、定めて愉快だらうと思います。あなたはそう思いませんか(『書簡』大正元年12月4日より)
【1904年1月19日の漱石】
今から112年前の今日、すなわち明治38年(1904)1月19日、数え39歳の漱石は、小さな紙の上に水彩絵具を使ってせっせと絵を描いていた。
長い黒髪をほどいた和服姿の女人が、伏目がちに花を抱えている立ち姿。描き終わると、上部の空間に細筆でびっしりと文字を書き込んでいく。
《君がほめて呉れたので倫敦塔が急にうまくなつた心持ちがする。然し世に稀なる文学者は少々驚いたね。何しろ此絵端書を以て御礼を申し上げねばならぬ》云々……。
漱石が描いていたのは、門弟の野間真綱に宛てた自筆の絵葉書だった。文中の「君がほめてくれた倫敦塔」とは、1月10日発行の雑誌「帝国文学」に掲載された漱石の幻想的な小説『倫敦塔』を指す。先に発表した『吾輩は猫である』第1回の原稿に続く、漱石の2作目の小説作品だった。
漱石はこの頃、盛んに絵葉書を作成しては、門弟たちに送っていた。絵葉書を受け取る恩恵にあずかったのは、野間真綱の他、寺田寅彦、橋口貢、橋口五葉、野村伝四といった門下生たち。絵の内容は、人物画、風景画、静物画、裸婦画、自画像、ペン描きによる滑稽画と多彩だった。近年流行の絵手紙のはしりといえるかもしれない。
漱石先生は、絵を観ることも描くことも大好き。晩年期には、さらに本格的に絵に挑み、東洋的な風合いの南画や俳画の作品を多く描いた。夏目家で飼われていた猫の絵も描いている。
友人の画家・津田青楓(つだ・せいふう 1880~1978)への手紙には、《生涯に一枚でいゝから人が見て難有(ありがた)い心持のする絵を描いて見たい》と綴ったこともある。相当の気合で絵に取り組んでいた漱石先生なのである。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。
