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『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」
 呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする(『吾輩は猫である』より)

高さ95mの時計台ビッグベン。重さ13トンの鐘が時を告げる。『永日小品』の回想風の一文に、漱石は《其の時頭の上でビツグベンが厳に十時を打ち出した。仰ぐと空の中でただ音丈する》と綴った。

高さ95mの時計台ビッグベン。重さ13トンの鐘が時を告げる。短編作品『永日小品』の回想風の一文に、漱石は《其の時頭の上でビツグベンが厳(おごそか)に十時を打ち出した。仰ぐと空の中でただ音丈する》と綴った。

 
【1901年1月10日の漱石】

今から115年前の今日、すなわち明治34年(1901)1月10日、英国留学中の漱石は、珍しく気持ちよく晴れ上がったロンドンの空を見上げていた。こんな日の市中には、時を告げるビッグベンの鐘の音もいつにもまして荘重な音色を響かせている。

3日前、漱石はロンドンで初めての雪を経験した。雪は2日間降り続いた。昨日は雪こそ止んだものの、雲が重たくたれこめていた。ヨーロッパの冬は気候的に曇天が長く続くが、この頃のロンドンは、それに加えて、各戸の煙突から流れ出る暖房用の石炭の煤煙が街中を漂っていた。昨日は、その灰が降り積もった白い雪をおおっていくのを、漱石はまるで阿蘇山が噴煙を上げたときの火山灰のようだと思いながら見ていた。

漱石は、文明社会における環境汚染の問題を意識的に眺めた最初の日本人かもしれない。6日前の日記には、こんなふうに記している。

《倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ痰ヲ吐キテミヨ。真黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ。何百万ノ市民ハ此煤烟ト此塵埃ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツツアルナリ》

この日は、そんな煤煙や塵埃のことも忘れてしまうほどの気持ちのいい好天気。漱石はひとり散歩に出た。フロッデン・ロードの下宿から、ぶらぶら歩きにデンマーク・ヒルの辺りをゆく。閑静な場所である。春のような温かな風がゆるやかに吹いている。漱石は、石造りの異国暮らしの中で忘れかけていた風雅の心を喚起されるような、快い気分を味わっていた。

夜はケニントン劇場に出かけ、パントマイムを見た。ここでいうパントマイムは、いわゆる黙劇ではない。主としてクリスマスの時期に、昔話や童話に材をとって子供向けに演じられるパロディ仕立ての「おとぎ劇」のようなもの。役者の衣装や道具立ての美しさが見事だった。

漱石には、このパントマイムも愉快だった。その滑稽味は、噺家の三遊亭円遊を思い起こさせた。大きな鼻で「鼻の円遊」とあだ名された円遊は、余興で、着物の裾をまくって尻ばしょり、半股引き、うしろ鉢巻きで、「向こう横丁のお稲荷さんへ…」と歌い出しながら、自分の鼻をもいで捨てるような仕種のステテコ踊りを披露し、よく寄席をわかせていた。

日本を離れて4か月。張りつめていた漱石先生の胸の中に、ちょっと郷愁もこみあげていた。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

 
文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。

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