『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。
■今日の漱石「心の言葉」
他人は己以上遥かに卓絶したものでも、遥かに劣ったものでもない。特別の理由がない人には僕はこの心で対している(『書簡』明治39年2月13日より)
【1896年1月3日の漱石】
今から120年前の今日、すなわち明治29(1896)1月3日、漱石は東京・根岸の子規庵(正岡子規の自宅)を訪れていた。漱石の他にも、何人かの訪客がいた。この席で初めて、漱石は森鴎外(1862~1922)と顔を合わせた。
時に漱石、数え30歳。愛媛県尋常中学校(現・松山中学校)の英語教師をつとめていて、冬休みの帰省中に同い年の親友で俳人の正岡子規(1867~1902)が主催する句会に誘われたのだった。鴎外は、漱石や子規より5つ年上。東大医学部を卒えて陸軍軍医となり、ドイツ留学もしたエリート。当時は軍医学校長をつとめていた。小説家としても、『舞姫』『文づかひ』などの作品ですでに世に知られる存在だった。漱石が処女作『吾輩は猫である』を発表するのは、この9年後のことだ。
後世から俯瞰すれば、漱石と鴎外は明治の文壇をリードした両巨頭と言っていい。だが、意外なことに、この句会での出逢いも含め、生涯に直接顔を合わせたのはわずか3、4度だったという。互いの存在を認め、著書は献呈し合っていたが、半ば意識的に淡い関係を貫いたように見受けられる。
句会には、内藤鳴雪(ないとう・めいせつ)、高浜虚子(たかはま・きょし)、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)といった面々も参加していた。いずれも愛媛・松山出身、子規門下の俳人だった。
この日、漱石が詠んだ一句。
<先生や屋根に書を読む煤払>
松山における自画像から生まれた句だったろう。漱石先生の松山体験が『坊っちやん』に昇華するには、まだ10年の時が必要だった。
子規庵を引き上げた漱石は、その足で貴族院書記官長・中根重一の虎ノ門の官舎に向かう。そこには、6日前に見合いしたばかりの中根鏡子が待っていた。

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。
