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文/砂原浩太朗(小説家)

石清水八幡宮

石清水八幡宮

騒乱の絶えなかった室町時代にあっても、「嘉吉(かきつ)の乱」の衝撃は群を抜いている。なにしろ、時の将軍が白昼堂々、家臣の屋敷で討ち取られるという事件なのだ。幕府衰退の端緒ともなった前代未聞の乱は、いかにして起こったのか。

くじ引きで選ばれた将軍

足利4代将軍・義持は、幕府の全盛期を築いた3代義満の子。嫡子の義量(よしかず)に将軍職をゆずり出家したものの、2年足らずで先立たれる。そののちは将軍空位のまま政務をになってきたが病を得、1428年、43歳で没してしまう。つぎの将軍候補となったのは、すでに出家していた4人の弟たちだった。が、義持が死にのぞんで後継者をさだめようとしなかったため、護持僧(専属の祈祷僧)として信頼厚い醍醐寺の満済(まんさい)から思いがけない提案がなされる。なんと、くじ引きによって跡継ぎを決めようというのだった。

現代のわれわれからすると、いささか乱暴な手段とも感じられるが、幕府内で目立った異論は出なかった。すでに管領(かんれい。家臣筆頭)たちによる合議体制ができあがっており、だれが将軍位についても大きな違いはないと判断したのかもしれない。くじ引きは石清水八幡宮(京都府八幡市)の神前でなされている。神意によって決するかたちを取ることで、満天下の合意を得ようとしたのだろう。

こうして選ばれたのが青蓮院(しょうれんいん。京都市東山区)の門跡(もんぜき。住職)である義円(ぎえん)。還俗して6代将軍・義教(よしのり)となる人物だった。

はじまった専制政治

義教はやはり3代義満の子で、義持の同母弟。年齢は8つ下である。10歳で青蓮院に入り、15歳で得度(出家)した。26歳で天台宗のトップである天台座主の地位につく。八幡宮でのくじ引きで後継者と決まったときには、すでに35歳となっていた。還俗した当初は義宣(よしのぶ)と名乗っていたが、「世をしのぶ」に通じるのを嫌い改名したとされる。

生涯の大半を僧として生きてきた人物であり、選ばれた経緯が経緯だから、家臣たちも彼に将軍としての手腕は期待していなかっただろう。実際、就任当初はおしなべて前代の政治を踏襲し、家臣たちの意見を尊重したという。

が、義教の治世はしだいに専制的な色合いを帯びはじめる。管領の権限を抑制するとともに、有力大名の家督問題へ介入、みずからの意にかなう者を当主の座へつけようとした。このため山名、斯波(しば)といった大族のなかで内紛が生じ、武力衝突までおこって諸家の勢力は次々と削がれることになる。そこまで意図しての振る舞いかどうかはともかく、結果として義教の思いどおりになったというべきだろう。

特筆すべきは、鎌倉公方(くぼう)を滅ぼしたことである。武士の本拠ともいうべき東国をおさめるため、初代尊氏が置いた鎌倉府の長をこう呼んだ。2代将軍の弟にあたる基氏を初代としており、必然的な流れとして京の幕府へ対抗心を燃やすこととなる。当代の持氏は、5代将軍・義量が早世したおり、自分が後継者になりたいと申し出たほどで、天下への野心を隠そうともしていない。当然、義教の就任をこころよく思うわけもなく、新元号である「永享(えいきょう)」の使用を拒否するなど、露骨なまでに反発をしめした。

1438年、持氏の嫡子が元服する際、補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね。上杉謙信の6世代前にあたる)が将軍義教の名から一字をたまわるよう進言する。が、持氏がこれをこばんだため関係が険悪となり、憲実は領国へ去った。持氏が彼を討伐しようとしたことから、幕府と鎌倉公方のいくさに発展する(永享の乱)。やぶれた持氏は自害、鎌倉府は100年におよぶ命脈を絶たれた。ちなみに、憲実の行動は幕府と示し合わせてのものとする見方が有力である。

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