夏目漱石、生前最後の正月を家族とこんなふうに過ごす。【日めくり漱石/1月1日】

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』…数々の名作を世に残した文豪・夏目漱石が没して今年でちょうど100年。漱石は小説、評論、英文学など多分野で活躍する一方、慈愛に富んだ人間味あふれる紳士でもありました。そんな漱石の「日常」を辿りながら文豪の素顔が見える逸話を取り上げ、小説、随筆、日記、書簡などに綴った「心の言葉」とともに毎日お届けします。


■今日の漱石「心の言葉」

行けるところまで行くのが人生である。誰しも自分の寿命を知ってる者はない(『野分』より)

松茸入り雑煮 (サライ 2015年1月号掲載より流用) 100 年前の元旦、夏目家で食された松茸雑煮を再現。東京風なので、醤油ベースのすまし汁に焼いた角餅の入った雑煮だったと思われる。

100 年前の元旦、夏目家で食された松茸雑煮を再現。東京風なので、醤油ベースのすまし汁に焼いた角餅の入った雑煮だったと思われる。写真/高橋昌嗣


【1916年1月1日の漱石】

今から100年前の今日、すなわち大正5年(1916)の1月1日、漱石は数え年で50歳を迎えた。6年前に伊豆・修善寺で倒れて以来、病気がちですっかり老け込み、髪にもヒゲにも白いものが目立ちはじめていた。

夏目家の元日は簡素で気楽。玄関に門松と注連縄(しめなわ)を飾り、屠蘇(とそ)と雑煮で新春を祝うだけ。この年は、鶏肉、小松菜などに加え、松茸の入った雑煮を食べた。この頃、夏目家に松茸を送ってくれる人がちょこちょこいたようで、門弟の和辻哲郎宛ての《松茸をありがたう(中略)中々方々から松茸をくれます》という漱石の礼状も残っている。

当時は電気冷蔵庫などない。夏目家には氷で冷やすタイプの冷蔵庫はあったというが、冷凍保存はできない。秋が旬の松茸を正月まで長持ちさせるため、おそらく漱石の妻・鏡子は塩漬けにするなどの知恵を働かせたのだろう。料理はあまり得意でなかったというが、創意工夫もしているのである。

年始の訪客の一番乗りは、物理学者で文学者の寺田寅彦(1878~1935)であったろうか。寅彦の日記によれば、寅彦は午前中に家を出て、《夏目先生方にて雑煮を呼ばれ》たという。

夕方になると、東京・早稲田南町の「漱石山房」は、例年通り、小宮豊隆、松根東洋城、滝田樗陰、松浦嘉一といった多くの門下生らでにぎわった。晩飯には、神楽坂の鶏料理店「川鉄」の合鴨鍋がふるまわれる。鏡子は、漱石以上に、こういうことには太っ腹。姐御肌だった。

午後9時頃、一同は引き上げ、漱石は残った小宮豊隆とともに離れの子供たちの勉強部屋へ入って、百人一首の歌留多(かるた)とりをした。漱石には18歳になる長女を頭に、4人の女の子と2人の男の子がいた。いろは歌留多では「屁をひって尻つぼめ」とか「頭かくして尻かくさず」など、おかしな札をとるのを得意とした漱石だが、この日は目の前の札までまんまと子供にさらわれてしまう始末。下戸の漱石先生、少々のお屠蘇で勘が鈍ったか。それでも、皆で上機嫌で遅くまで遊びに興じた。平和でのどかな、家族団欒の一齣。そしてこれが、漱石生前最後の正月となった。

なにげない日常を、一日一日、ないがしろにせず大切に生きた漱石の足跡が、ここにも確かに刻まれている。この日、朝日新聞に発表された漱石の随筆『点頭録』には、還暦過ぎから道を志し20年間修業を続けた中国・唐の禅僧、趙州(じょうしゅう)の逸話を引き、こんな一文も綴られている。

《力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思ふ。それで私は天寿の許す限り趙州の顰(ひそみ)にならつて奮励する心組でゐる(中略)現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於ての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽さうと思ふのである》

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館は、漱石没後100年を記念して文豪の作品世界と生涯を展覧する特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を開催する。会期は2016年3月26日(土)~5月22日(日)、開館時間は9時30分~17時(入館は16時30分まで)、観覧料は700円。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜(5月2日は開館)
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台にある神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦 
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』『漱石「こころ」の言葉』『文士の逸品』『石橋を叩いて豹変せよ』など。

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