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文/砂原浩太朗(小説家)

「応仁の乱」と日野富子【にっぽん歴史夜話20】

日野富子(1440~96)の名は、たいていの日本人が知っている。小説やドラマの主人公にもなったが、よいイメージを抱いている人はまだ少数派だろう。近年かなりあらたまってきたとはいえ、悪女あつかいされた時代も長かった。「応仁の乱」の元凶とみなされたこともある。室町時代が注目を浴びつつある今、もう一度、彼女の実像と歴史上の立ち位置を探ってみたい。

波乱の新婚生活

富子は足利8代将軍・義政(1436~90)の正室である。「容顔美麗」という記録があるから、人目をひく容姿だったのだろう。実家の日野家は、ほんらい中級の公家だが、光厳上皇から院宣(上皇の命令)を取り次ぎ初代将軍・尊氏の立場を正当化するなど、足利氏の天下取りに多大な貢献をはたした。そのためもあって、3代義満から11代義澄(後述)まで、将軍の妻ないし母はすべて日野家から出ている。義政の母・重子も富子の大叔母にあたっていた。
義政に嫁いだのは数え16歳のとき。夫は4つ年上だったが、すでに今参局(いままいりのつぼね)をはじめとする寵妾がおり、娘ももうけていた。夫婦生活は必ずしも希望にあふれたスタートではなかったろう。富子は4年後、子を生むが(男子とも女子ともいわれる)、ほどなく早世してしまう。これが今参局の呪詛によると疑いがかかり、局は追放、配所へ向かう途中、自刃したとされている。状況だけ取り上げれば、降りかかった不幸を利用してライバルを葬ったように見えるが、なんの証もないことだし、仮に陰謀があったとして、糸を引いたのが富子本人とはかぎらない。むしろ、のちに左大臣となる兄・勝光や、大叔母でもある姑・重子など、日野家の権勢を増そうとする人々が率先してうごいた可能性も高いだろう。じっさい、当時は重子の差し金によるという風聞がもっぱらだった。

富子は「応仁の乱」の元凶か

義政はのちに造営した銀閣を見てもわかるように、芸術的なセンスには秀でていたが、政治家としての才覚や豪胆さには欠けていたと言わざるをえない。当時の幕政は、管領(将軍を補佐する重職)をはじめとする近臣たちに牛耳られており、失望した義政ははやばやと隠居をのぞむようになる。富子との結婚後、10年近くがたったものの、いまだ男子にめぐまれなかったため、僧となっていた弟を還俗させ、養子とした。が、皮肉なことにその翌年(1465)、富子が男子を出産、いちどは跡継ぎとさだめた弟・義視(よしみ)とのあいだに暗雲が立ちこめてしまう。
むろん、富子としてはようやくさずかった我が子を将軍位につけたい。母親としては当然の思いであり、これを責めるのは酷というものだろう。義政がはっきりした態度を示さなかったため、義視は管領・細川勝元を後ろ盾とし、富子は山名宗全をたよる。山名氏は家格こそ管領におよばぬものの、かつては11か国を領し、これが日本全国の6分の1にあたるところから、「六分一殿」と呼ばれて威勢を誇っていた。3代義満に警戒され勢力を削がれたが、この時代でも9か国を支配する大族である。いっぽう、勝元は代々管領を輩出する名家の出身で、44歳という長からぬ生涯のうち、通算21年余もその職にあった、いわば生え抜きのエリートだった。
両者の対立が、やがて「応仁の乱」へとつながるのだが、富子をその元凶とする見方は一方的というべきだろう。彼女の存在はひとつの要因にすぎない。前述のように、細川勝元と山名宗全は当時の政界を二分する大立者だった。初期には勝元が宗全の娘をめとるなどの歩みよりもあったが、これもたがいの勢力を侮りがたいと見ればこそである。富子と義視のほかに、家督あらそいを起こしていた畠山・斯波(しば)の両管領家も、やはり二派にわかれて勝元と宗全に助力を依頼している。このふたりは、いずれ矛をまじえる運命だったように思われてならない。

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