新着記事

タクシー乗車時、運転手と会話する人80.5%

タクシー乗車時、運転手と会話しますか? タクシー利用者のリアルな声

滑舌の低下、食べこぼし、飲食時の“むせ”|口の機能の衰えは「オーラルフレイル」の危険性あり!

切り餅を使った「中華おこわ」

【管理栄養士が教える減塩レシピ】余ったお餅をリメイク!切り餅を使った「餅グラタン」「中華おこわ」

バルミューダ ザ・ライト|明るくくっきりした視界を確保。正確な色が見え、影ができにくい

毎週月曜日更新!「ニャンコ先生の開運星占い」(1/20~1/26)射手座~魚座編

毎週月曜日更新!「ニャンコ先生の開運星占い」(1/20~1/26)獅子座~蠍座編

毎週月曜日更新!「ニャンコ先生の開運星占い」(1/20~1/26)牡羊座~蟹座編

これからの20年、30年で、人生全体の納得度が大きく左右される|『人生のピークを90代にもっていく!』

人生の後半を幸せに生きていくための秘訣|人生のピークを90代にもっていく!

龍爪梅花皮の酒器|優美な白の縮れはこの世にひとつ

国宝 銅剣・銅鐸・銅矛(部分) 島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)

出雲と大和の名品を一堂に集めた展覧会【日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和】

通販別冊『大人の逸品』最新号はこちら

LINE公式アカウントでも記事を配信中

友だち追加

お気軽に友達追加してください

サライ本誌最新号(クリックで試し読み)

ピックアップ記事

  1. 『漆椀 ちょもらんま』(中)に、ごはんが盛られた様子(写真左)。『漆椀 ちょもらんま』(小)では、「讃岐オリーブ牛」と松茸の料理(写真右)が饗された。後方の小皿は、ガラス工芸家・藤田喬平さんの「手吹ヴェニス小皿」。写真提供/日本博事務局
  2. MAZDA CX-30は愛されるためにデザインされたとも言える。
  3. 鴨鍋

>>過去の記事へ

サライの通販

>>過去の記事へ

サライ7月号付録「筋トレチューブ」トレーニング動画公開中!

趣味・教養

織田家への忠誠心を抱き続けた末の不運な最期|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【佐々成政編】

写真・文/藪内成基

戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。

今回は、織田信長の信頼を勝ちとり、本能寺の変後も織田家への忠誠心を失わなかったものの、ライバルであった豊臣秀吉との争いで敗北。その後、豊臣秀吉との関係悪化によって、不運な最期を遂げた佐々成政(さっさなりまさ)を取り上げます。

織田信長に見いだされ、長篠の戦いで鉄砲隊を率いる

尾張国(現在の愛知県)に佐々盛政(成宗とも)の子として生まれます。織田信長に仕え、親衛隊の役割をもつ馬廻衆の中で、精鋭の「母衣衆」に選抜。美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏攻めの際には、赤と黒の母衣衆のうち、黒母衣衆の筆頭に選ばれました。ちなみに赤母衣衆の筆頭は、後に争うことになる前田利家でした。

天正3年(1575)、武田勝頼率いる騎馬隊と織田・徳川連合軍が戦った長篠の戦いでは、鉄砲奉行に任じられ、織田信長の勝利に貢献。その後、柴田勝家の与力として前田利家や不破光治とともに「府中三人衆」になりました。

織田信長の勢力が加賀から越中に広がると、佐々成政は越中新川・砺波を得て、越後の上杉景勝に備えます。この頃の越中富山では、神保(じんぼ)氏が勢力を有していましたが、越後の上杉氏に攻められ苦戦していました。強力な上杉氏に対抗するために、越中富山に配置されるほどに、佐々成政は織田信長に信頼されていたのです。

武田の騎馬軍団を鉄砲で迎え撃つために築かれた馬防柵。長篠城(愛知県新城市)近くに再現されている

武田の騎馬軍団を鉄砲で迎え撃つために築かれた馬防柵。長篠城(愛知県新城市)近くに再現されている

本能寺の変の後、羽柴秀吉との争いが始まる

天正10年(1582)、本能寺の変が起こった時には、北陸方面軍は上杉氏の越中の拠点、魚津城を攻略したばかりでした。その後の天正11年(1583)、織田信長の後継者争いから、柴田勝家と豊臣(羽柴)秀吉が争った賤ヶ岳の戦いが起こります。佐々成政は、上杉氏に対する防備に追われていたため、叔父の佐々平左衛門が率いる、若干の援兵を出すに留まります。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が討たれると、佐々成政は豊臣秀吉に帰服。ただし、織田信長の次男、織田信雄を主君に立てることを条件にしました。佐々成政はあくまで、織田家へ忠誠を第一に考えていたのです。

天正12年(1584)、徳川家康と組んだ織田信雄と、豊臣秀吉が戦う小牧・長久手の戦いが起こりました。佐々成政は織田信雄・徳川家康連合軍に味方し、豊臣秀吉についた前田利家の末森城を攻撃。わずか半日で本丸に迫るほどの勢いをみせます。同年12月には、徳川家康と同盟を結ぶため、豊臣秀吉方に気付かれないよう、厳冬の飛騨山脈・立山山系を越えました。「さらさら越え」として伝わっています。

残念ながら、命がけで雪深い峰々を越えたにも関わらず、徳川家康は話を聞き入れませんでした。織田信雄にも説得を行いましたが、不調に終わってしまいます。

豊臣秀吉によって破却された富山城。江戸時代に前田家の分家が独立し、居城として改修した。現在の天守は昭和29年に建造

豊臣秀吉によって破却された富山城。江戸時代に前田家の分家が独立し、居城として改修した。現在の天守は昭和29年に建造

【次ページに続きます】

ページ:

1

2

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

関連記事

  1. 江戸城・松の大廊下跡 「吉良上野介」は悪人だったのか~「忠臣蔵」敵役の真実【にっぽん歴…
  2. 足利尊氏像 「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)とは何か~足利尊氏・直義兄…
  3. 仙石秀久の時代に築かれた小諸城大手門(国重要文化財) 大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男…
  4. 楠木正成像 楠木正成~「忠臣」か「悪党」か【にっぽん歴史夜話21】
  5. 肱(ひじ)川を天然の水堀として築かれた大洲城。四重四階の天守は、平成16年(2004)に再建された 「賤ヶ岳七本槍」から豊臣水軍の中心人物へ|三英傑に仕え「全国転勤…
PAGE TOP