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「山内一豊の妻」伝説を検証する【にっぽん歴史夜話15】

文/砂原浩太朗(小説家)

高知城内 山内一豊の妻 銅像

(高知城内 山内一豊の妻 銅像)

「内助の功」ということばがある。いや、あったというべきか。「夫が外でしっかりと働けるのは、家を守る妻の働きがあるということ」(広辞苑)という語釈も、さすがに古めかしく感じる。日常レベルではほぼ死語を通り越し、使う状況によっては物議を醸しかねない言葉とすらいえるだろう。

にもかかわらず、かつてその象徴とされた「山内一豊の妻」は、豊臣秀吉の正室・北政所(第7回参照)、おなじく側室の淀殿、前田利家の妻・芳春院(第3回参照)らとならんで、いまだに戦国女性としてはトップクラスの知名度をたもっている。衰えぬ人気の秘密と、賢夫人伝説の真偽をさぐってみたい。

名馬伝説の出どころは、あの有名人

山内一豊(1545?~1605)は、坂本龍馬で有名な土佐藩(高知県)の祖である。姓は「やまうち」と読むのが正しいが、名も「かずとよ」でなく、「かつとよ」という説が近年有力となっている。尾張(愛知県)上四郡の守護代・岩倉織田氏(信長家とは別流)の家老を務める家に生まれたが、主家は滅亡。浪々ののち、豊臣秀吉に仕える。関ヶ原では徳川につき、戦後、それまでの掛川(静岡県)6万石から土佐24万石へ抜擢された。戦国の武士としてはめぐまれた人生といえるだろう。

夫人は一豊より12歳年下とされる。名には「千代」と「まつ」の二説があるが、じつはどちらも決め手に欠けている。小説やドラマの影響で千代のほうが知られているが、あくまで仮説のひとつなのである。また出自にも諸説あり、近江浅井家の家臣・若宮氏と、美濃郡上八幡の城主・遠藤氏の出とするものが拮抗している。現時点では不明というしかないが、それなりに名のある武家の出身であったことは間違いないようだ。

さて、一豊といえば名馬を買うエピソードが知られている。若き日の一豊が無双ともいうべき駿馬に出会った。ぜひ買い求めたいと思ったものの、貧しい身ゆえ、とても手が出ない。が、話を聞いた妻が、嫁入りのときひそかに持たされた黄金十両を差しだした。名馬を得た一豊はおおいに面目をほどこし、これが出世の糸口になったという。

この挿話は、徳川6代将軍家宣(いえのぶ)の側近として有名な新井白石(1657~1725)が、著書「藩翰譜」のなかで記しているもの。その後、「常山紀談」などの説話集にも採られ、戦前の教科書に載ったことで広く知られるようになった。

矛盾だらけのエピソード

ところが、この話には史実と矛盾する点が多い。時期は、一豊が織田家に仕官したてのころと記されているが、そもそも彼が信長に仕えたという確証がない。一豊の武功ではっきり記録が残っているのは、天正元(1573)年、秀吉の配下として越前(福井県)の朝倉義景攻めへの従軍が最初である。信長に仕えたとすれば、これ以前ということになる。一方で、この名馬は商人が安土へ連れて来たという。ところが安土城は着工が1576年だから、明らかに辻褄が合わないのだ。ほかにも、信長がこの名馬を目にして一豊を讃えたのは都で馬揃え(閲兵式)があった折とするが、これは本能寺の変の前年におこなわれたものであるなど、そのまま事実とするには無理が多すぎる。

とはいえ、筆者も小説家であるから、史実と合致しない部分があるからといって、こうしたエピソードを否定する気にはなれない。「貧しい暮らしのなかで、よくもこのような大金を隠しおおせたもの」と、喜びつつも一豊が恨みごとめいたものを口にする一節もあり、通りいっぺんの美談にはおさまらない滋味ある話なのだ。

たとえば、信長の家臣たる秀吉に仕えたことが、「織田家に仕官した」と伝承された可能性もあるだろう。なにしろ白石は、将軍の師ともいうべき儒学者であり、「正徳の治」と呼ばれる安定した治世をもたらした功労者である。くわえて、一豊の子孫は大名として存続しているのだから、面白半分に適当なことを書くわけもない。執筆当時、かなりの信憑性をもってこの挿話が伝えられていたと考えていい。

が、白石がどのようにしてこのエピソードに出会ったかまでは分からない。「藩翰譜」の成立は、一豊の没年からしても100年ほどのちである。その間の経緯が不明であるのは、かえすがえすも残念というほかない。

大抜擢の陰に夫人あり

豪傑というイメージはあまり強くない一豊だが、前述の朝倉攻めでは、顔を矢で射抜かれるという大けがを負いながらも敵将を討ち取っている。また、秀吉の信頼を得て、養子・秀次の宿老に任じられてもいるから、ひとかどの人物であったことはたしかだろう。とはいえ、豊臣時代の石高は6万石であり、大身と呼べるほどではなかった。この間、夫妻は一粒種である娘を地震で亡くすという悲劇に見舞われているが、夫人はその悲しみを埋めるかのように、捨て子を拾って育てあげたという。また、彼女は色とりどりの端切れを縫い合わせて小袖(普段着)をこしらえるのを好んだとされるが、よほど美しい仕上がりだったらしく、感嘆した秀吉を通じて朝廷へ献上されたという話も伝わっている。

さて、一豊大躍進のきっかけとなったのは、関ヶ原に先立つこと2か月、石田三成と手をむすぶ会津・上杉氏討伐のため、諸将を率いた家康が下野(栃木県)まで来た折のこと。従軍していた山内勢のもとへ、上方からある家臣がやって来た。夫人から文箱を託されたという。その者がかぶっていた編笠の緒(首にかける紐)をほどくと、こより状に編まれた夫人からの密書があらわれた。その書中に指示があったのだろう、一豊は封をあけぬまま、文箱を家康のもとへ届ける。開いてみると、石田方から一豊を勧誘する書状が入っていた。当時、上方に残った妻子を人質として、大名たちを味方につけようと企てていたのである。くわえてもう一通、夫人から「わたくしの身は案じず、どうか家康公に忠節を尽くしてください」という内容の手紙も含まれていた。これらを開封もせずに差し出したことで家康の信頼を勝ちとり、のちの抜擢につながったという。むろん、文箱へおさめられた夫人の書状も、家康が読むことを前提に書かれたのである。これは、使者となった家臣の子孫に同様の話が伝わっており、名馬伝説にくらべて、かなり事実に近いものと思われる。

が、これだけでは終わらない。直後の軍議で、一豊は思い切った決断をした。なんと居城を徳川方へ明け渡し、全面的な忠誠を誓ったのである。むろん、家康の信は揺るぎないものとなり、他の大名もぞくぞくとこれにならった。みごとな夫婦連携プレーというべきだろう。戦後、与えられた土佐一国は、二人してつかんだものなのである。

一豊は関ヶ原ののち、数年で世を去った。夫婦のあいだに男子はなかったから、山内家は甥が継ぐこととなる。夫人は出家して見性院(けんしょういん)と号し、京へ移った。やはり京に隠棲していた北政所とは親しい仲だったというから、そうした縁もあったのだろう。その後12年を生き、元和3(1617)年に他界。通説にしたがえば、夫婦ともに61歳の生涯だったことになる。

一豊もそうだが、側室を置かなかった大名は意外に多い。が、キリシタンであったり、妻が主君の娘であったりした例が大半である。一豊の場合、ここには当てはまらない。しんそこ妻を大切に思っていたのだろう。

山内家の墓所は高知にもあるが、京都妙心寺の霊屋(おたまや)では、寄り添うように一豊夫婦の墓塔がならんでいる。手を取りあい戦国を駆けぬけたこのふたりにふさわしいと感じるのは、筆者だけではあるまい。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

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