新着記事

遠州5層ガーゼのパジャマ|風合い豊かなガーゼ生地を5層に重ね極上の着心地を実現

【管理栄養士が教える減塩レシピ】|みずみずしい梨を食卓にも!「豚肉の梨生姜ソース」「梨とトマトのカプレーゼ風」

【管理栄養士が教える減塩レシピ】みずみずしい梨を食卓にも!「豚肉の梨生姜ソース」「梨とトマトのカプレーゼ風」

ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー

「アメリカン・ニューシネマの洗礼を受けた」映画|『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』【面白すぎる日本映画 第34回・特別編】

資産形成

ビジネスパーソンの預貯金平均額は20代452万円、30代682万円、40代952万円!|老後資金の資産運用、何してる?

毎週月曜日更新!「ニャンコ先生の開運星占い」(9/23~9/29)

生活は口のなかに表れる|『口がきれいだと、健康で長生きできる』

唾液が少ない人は要注意!口がきれいでない人は、長生きできない

招福 健康パートナー|健康と幸福を願って握る福の神のツボ押し

起業

定年後の起業が増加傾向!?|シニア層の4人に1人が「起業に関心あり」

【最後の恋】「うちでお昼はいかが?」高級マンションでひとり暮らしをする4歳年下の未亡人の誘惑~その2~

【最後の恋】偶然入った昼間のカラオケスナック。「いい声ね」と言われ、人生初のモテ期が始まり……~その1~

LINE公式アカウントでも記事を配信中

友だち追加

お気軽に友達追加してください

サライ本誌最新号(クリックで試し読み)

サライ7月号付録「筋トレチューブ」トレーニング動画公開中!

通販別冊『大人の逸品』最新号はこちら

ピックアップ記事

  1. 東寺
  2. 世界遺産の構成資産内にある旧五輪教会。傘を開いたようなコウモリ天井の下、イエスを抱いた聖ヨセフ(イエスの養父)が佇む。手前の聖体拝領台(柵)の意匠は大浦天主堂(長崎市・世界遺産)と共通。鳥の声と波の音が堂内にこだまする。

>>過去の記事へ

サライの通販

>>過去の記事へ

趣味・教養

豊臣秀吉の正室・北政所の謎を追う【にっぽん歴史夜話 7】

 文/砂原浩太朗(小説家)

豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)。戦国女性のなかでも、一、二をあらそう知名度をもち、たびたびドラマや小説の主人公にもなっている。が、それでいて、生まれ年も名も、正確なところはいまだ不明という謎多き存在でもある。本稿では、北政所を語る際、かならず問題となるこの二つの謎へ筆者なりの考察をくわえ、その実像を探ってみたい。

「ねね」か「おね」か

「北政所」とは関白の正室を示す呼称で、本来、一個人に限定されるものではない。が、「黄門」(中納言の唐風呼称)と聞けば徳川光圀、「太閤」(前関白)なら秀吉を連想するように、北政所といえば、まずは秀吉の正室その人を指す。それだけ彼女の存在感が大きかったという証でもあるだろう。

さて、北政所の実名には、大きくわけて二説がある。「ねね(おねね)」と「おね」である。結論を先に言うと、現時点では決め手がなく、どちらかに特定することはできない。

北政所には自筆の書状が残されており、そこには「禰」と署名されている。また、秀吉からの手紙にも、宛名として「おね」と記されたものがある。これらが「おね」説の根拠となるわけだ。

が、「お」は接頭語であるから、この場合、北政所の実名は「ね」だということになる。戦国期の女性といえば、「まつ」(前田利家夫人)、「千代」(山内一豊夫人)など、二音の名が一般的で、「ね」一音というのは、異様な印象を受ける。また、当時は姓名を略して書くのも、ごく当たり前のことだった。たとえば前田利長(1562~1614。利家の嫡男)は秀吉から羽柴姓をたまわり、肥前守に任じられていたから「羽柴肥前守」となるが、略して「は ひ」、または「ひ」と署名した書状がのこっている。この例ひとつ見ても、「禰」と書かれているから「おね」だ、と断定することにはためらいを覚えてしまう。

一方で、「ねね」説にも根拠がない。「禰」が省略された署名だとして、もとの名が「禰禰」だったという証拠にはならないからである。

この両説にくらべると知られていないが、「禰」と書いて「ねい」と読む説がある。筆者は、むしろこちらを支持したい。「寛政重修諸家譜」(徳川幕府が編んだ諸氏の系図・略伝集)では、北政所の名を「寧子」とするが、音が通じる字を適当にあてて書くことも当時はよく行われていた。「禰=寧(ねい)」説はかなり有効だと思えるのだ。

ちなみに、筆者は小説『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社刊)で「ねね」を採用した。これは「おね」説に賛同できなかったものの、「おねい」では読者が違和感を持つと判断し、ひとまず人口に膾炙している「ねね」を選んだのである。

13歳で花嫁に?

名前だけでなく、北政所はその生年も不明である。先の「寛政重修諸家譜」には寛永元(1624)年に83歳、または76歳で没したとあるから、逆算すると、天文11(1542)年ないし18(1549)年生まれ。秀吉との結婚は永禄4(1561)年とされているから、後者の場合、数え13歳での結婚ということになる。若すぎるように思えるかもしれないが、当時はこれが普通で、前田利家の妻まつも12歳で結婚している(第3回参照)。前者だと、20歳での結婚ということになり、むしろ晩婚と言えるほどだ。ゆえに筆者は18年説を採りたいが、これまた、どちらも決め手に欠けている。

利家夫人まつ(芳春院)が名前も生年もはっきり伝わっているのに、天下人の正室であった北政所に不明な点が多いのは、一見ふしぎな気がしてしまう。が、これは豊臣家が早くに滅ぼされてしまったため、正式な家譜をつくることができなかったからだろう。

【次ページに続きます】

ページ:

1

2

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

関連記事

  1. 松江城天守には、前身である月山富田城から運ばれてきた材木が一部に利用されている 徳川家康と石田三成の仲介役を果たし、国宝・松江城を築く|三英傑に…
  2. 藤堂高虎が考案した「層塔型天守」の代表格である宇和島城 築城術と忠誠心で勝ち取った秀吉と家康の信頼|三英傑に仕え「全国転…
  3. 松浦武四郎~「北海道」の名づけ親【にっぽん歴史夜話19】 松浦武四郎~「北海道」の名づけ親【にっぽん歴史夜話19】
  4. 豊臣秀吉によって破却された富山城。江戸時代に前田家の分家が独立し、居城として改修した。現在の天守は昭和29年に建造 織田家への忠誠心を抱き続けた末の不運な最期|三英傑に仕え「全国転…
  5. 「聖徳太子」は虚像だったのか【にっぽん歴史夜話18】 「聖徳太子」は虚像だったのか【にっぽん歴史夜話18】
PAGE TOP