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豊臣秀吉の正室・北政所の謎を追う【にっぽん歴史夜話 7】

 文/砂原浩太朗(小説家)

豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)。戦国女性のなかでも、一、二をあらそう知名度をもち、たびたびドラマや小説の主人公にもなっている。が、それでいて、生まれ年も名も、正確なところはいまだ不明という謎多き存在でもある。本稿では、北政所を語る際、かならず問題となるこの二つの謎へ筆者なりの考察をくわえ、その実像を探ってみたい。

「ねね」か「おね」か

「北政所」とは関白の正室を示す呼称で、本来、一個人に限定されるものではない。が、「黄門」(中納言の唐風呼称)と聞けば徳川光圀、「太閤」(前関白)なら秀吉を連想するように、北政所といえば、まずは秀吉の正室その人を指す。それだけ彼女の存在感が大きかったという証でもあるだろう。

さて、北政所の実名には、大きくわけて二説がある。「ねね(おねね)」と「おね」である。結論を先に言うと、現時点では決め手がなく、どちらかに特定することはできない。

北政所には自筆の書状が残されており、そこには「禰」と署名されている。また、秀吉からの手紙にも、宛名として「おね」と記されたものがある。これらが「おね」説の根拠となるわけだ。

が、「お」は接頭語であるから、この場合、北政所の実名は「ね」だということになる。戦国期の女性といえば、「まつ」(前田利家夫人)、「千代」(山内一豊夫人)など、二音の名が一般的で、「ね」一音というのは、異様な印象を受ける。また、当時は姓名を略して書くのも、ごく当たり前のことだった。たとえば前田利長(1562~1614。利家の嫡男)は秀吉から羽柴姓をたまわり、肥前守に任じられていたから「羽柴肥前守」となるが、略して「は ひ」、または「ひ」と署名した書状がのこっている。この例ひとつ見ても、「禰」と書かれているから「おね」だ、と断定することにはためらいを覚えてしまう。

一方で、「ねね」説にも根拠がない。「禰」が省略された署名だとして、もとの名が「禰禰」だったという証拠にはならないからである。

この両説にくらべると知られていないが、「禰」と書いて「ねい」と読む説がある。筆者は、むしろこちらを支持したい。「寛政重修諸家譜」(徳川幕府が編んだ諸氏の系図・略伝集)では、北政所の名を「寧子」とするが、音が通じる字を適当にあてて書くことも当時はよく行われていた。「禰=寧(ねい)」説はかなり有効だと思えるのだ。

ちなみに、筆者は小説『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社刊)で「ねね」を採用した。これは「おね」説に賛同できなかったものの、「おねい」では読者が違和感を持つと判断し、ひとまず人口に膾炙している「ねね」を選んだのである。

13歳で花嫁に?

名前だけでなく、北政所はその生年も不明である。先の「寛政重修諸家譜」には寛永元(1624)年に83歳、または76歳で没したとあるから、逆算すると、天文11(1542)年ないし18(1549)年生まれ。秀吉との結婚は永禄4(1561)年とされているから、後者の場合、数え13歳での結婚ということになる。若すぎるように思えるかもしれないが、当時はこれが普通で、前田利家の妻まつも12歳で結婚している(第3回参照)。前者だと、20歳での結婚ということになり、むしろ晩婚と言えるほどだ。ゆえに筆者は18年説を採りたいが、これまた、どちらも決め手に欠けている。

利家夫人まつ(芳春院)が名前も生年もはっきり伝わっているのに、天下人の正室であった北政所に不明な点が多いのは、一見ふしぎな気がしてしまう。が、これは豊臣家が早くに滅ぼされてしまったため、正式な家譜をつくることができなかったからだろう。

北政所の選択が歴史を決めた

北政所は織田家中の士・杉原定利の次女として生まれた。父について詳しいことは分かっていないが、叔母の嫁ぎ先で、北政所の養父となった浅野長勝が同家の弓衆であるから、釣り合いのとれる身分ではあったろう。

結婚のきっかけは、夫となる藤吉郎(秀吉)が、この浅野家に親しく出入りしていたことだったらしい。一説によると、北政所の実母が大反対したのを押しきって嫁いだというから、今でいう恋愛結婚だったのかもしれない。

以後40年近くを添いとげたが、子には恵まれなかった。そのかわりというべきか、秀吉の甥・秀次や秀勝、徳川家康の次男・秀康や宇喜多秀家といった養子たちの世話を一手に引き受けていたようだ。女中たちに不始末があった折、秀吉にとりなして許してもらったというエピソードもあるから、母性のつよい、やさしい人柄であったと想像される。

夫の死後は出家して高台院と称し、早々に大坂城を出て京へ隠棲した。亡夫を祀る豊国(とよくに)社へ毎月のように詣でていたというから、心しずかに菩提を弔いたかったのだろう。が、北政所が政治の表舞台から退いたため、福島正則・加藤清正ら子飼いの武将たちが躊躇なく徳川家康につくことができたとも言える。側室・淀殿への嫉妬から家康に味方し、豊臣家滅亡への道を作ったなどというストーリーは単なる憶測であり、なんの証拠もない。とはいえ、承久の乱における北条政子のごとく、秀吉の恩をかかげて武将たちを叱咤するという選択もありえただろう。政治的な立場から身を退くという北政所の決断が歴史を動かしたのは皮肉なことである。

むろん、亡夫と築きあげた豊臣家に思いがなかったわけはない。大坂夏の陣(1615)で淀殿と秀頼が自刃した10日ほどのち、彼女は伊達政宗あての書状にこう記しているのだ。「大坂のことは、なんとも申し上げる言葉がないほどでございます」。一代の英雄・秀吉の妻として、豊臣家の興亡を見守った者の感慨がそこに詰まっている。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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