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 文/砂原浩太朗(小説家)

豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)。戦国女性のなかでも、一、二をあらそう知名度をもち、たびたびドラマや小説の主人公にもなっている。が、それでいて、生まれ年も名も、正確なところはいまだ不明という謎多き存在でもある。本稿では、北政所を語る際、かならず問題となるこの二つの謎へ筆者なりの考察をくわえ、その実像を探ってみたい。

「ねね」か「おね」か

「北政所」とは関白の正室を示す呼称で、本来、一個人に限定されるものではない。が、「黄門」(中納言の唐風呼称)と聞けば徳川光圀、「太閤」(前関白)なら秀吉を連想するように、北政所といえば、まずは秀吉の正室その人を指す。それだけ彼女の存在感が大きかったという証でもあるだろう。

さて、北政所の実名には、大きくわけて二説がある。「ねね(おねね)」と「おね」である。結論を先に言うと、現時点では決め手がなく、どちらかに特定することはできない。

北政所には自筆の書状が残されており、そこには「禰」と署名されている。また、秀吉からの手紙にも、宛名として「おね」と記されたものがある。これらが「おね」説の根拠となるわけだ。

が、「お」は接頭語であるから、この場合、北政所の実名は「ね」だということになる。戦国期の女性といえば、「まつ」(前田利家夫人)、「千代」(山内一豊夫人)など、二音の名が一般的で、「ね」一音というのは、異様な印象を受ける。また、当時は姓名を略して書くのも、ごく当たり前のことだった。たとえば前田利長(1562~1614。利家の嫡男)は秀吉から羽柴姓をたまわり、肥前守に任じられていたから「羽柴肥前守」となるが、略して「は ひ」、または「ひ」と署名した書状がのこっている。この例ひとつ見ても、「禰」と書かれているから「おね」だ、と断定することにはためらいを覚えてしまう。

一方で、「ねね」説にも根拠がない。「禰」が省略された署名だとして、もとの名が「禰禰」だったという証拠にはならないからである。

この両説にくらべると知られていないが、「禰」と書いて「ねい」と読む説がある。筆者は、むしろこちらを支持したい。「寛政重修諸家譜」(徳川幕府が編んだ諸氏の系図・略伝集)では、北政所の名を「寧子」とするが、音が通じる字を適当にあてて書くことも当時はよく行われていた。「禰=寧(ねい)」説はかなり有効だと思えるのだ。

ちなみに、筆者は小説『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社刊)で「ねね」を採用した。これは「おね」説に賛同できなかったものの、「おねい」では読者が違和感を持つと判断し、ひとまず人口に膾炙している「ねね」を選んだのである。

13歳で花嫁に?

名前だけでなく、北政所はその生年も不明である。先の「寛政重修諸家譜」には寛永元(1624)年に83歳、または76歳で没したとあるから、逆算すると、天文11(1542)年ないし18(1549)年生まれ。秀吉との結婚は永禄4(1561)年とされているから、後者の場合、数え13歳での結婚ということになる。若すぎるように思えるかもしれないが、当時はこれが普通で、前田利家の妻まつも12歳で結婚している(第3回参照)。前者だと、20歳での結婚ということになり、むしろ晩婚と言えるほどだ。ゆえに筆者は18年説を採りたいが、これまた、どちらも決め手に欠けている。

利家夫人まつ(芳春院)が名前も生年もはっきり伝わっているのに、天下人の正室であった北政所に不明な点が多いのは、一見ふしぎな気がしてしまう。が、これは豊臣家が早くに滅ぼされてしまったため、正式な家譜をつくることができなかったからだろう。

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