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柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉が激突した賤ヶ岳の戦い(1583)で、柴田方として出陣していた利家は、戦線離脱することによって秀吉へ勝利をもたらした第1回参照。成政はこのとき越(富山県)に封じられていたが、賤ヶ岳へは出陣せず、いくさののち秀吉の麾下となる。一説によると、成政は柴田勝家と不和であったため、出陣を見合わせたという。

賤ヶ岳の翌年、天正12(1584)年4月、信長の遺児・信雄と徳川家康が秀吉といくさに及んだ。小牧・長久手の戦いである。このとき成政は織田・徳川方につき、前田家の支城・末森を攻めたが、利家の機敏な用兵に敗れる第3回参照。一方、信雄が単独で秀吉と和睦してしまったため、家康も和を講じざるを得なくなった。いまだ戦意の高い成政は、いくさの続行を主張すべく、無謀とも思える挙に出る。厳冬の立山連峰を越え、浜松まで家康へ会いに行ったのだ。これを「さらさら越え」と呼び、古来史実か伝説かが議論の的になっているが、家康の近臣・松平家忠の日記に成政の来訪が記されているので、事実と考えていいだろう。

この挿話からも武勇果断の人となりがうかがえるが、決死の説得もむなしく家康も和睦をえらび、孤立した成政は翌年、秀吉に降伏した。

お前は光、俺は影

信雄の乞いによって一命を助けられた成政だが、越中の所領は一郡のみに削られ、残りは利家に与えられた。天正15(1587)年には肥後(熊本県)に転封されたが、ここは国人(土着の武士)の勢力がつよく、統治のむずかしい土地柄である。案の定、一揆が起こり、他の大名たちの力を借りてようやく平定したものの、秀吉は成政の失政として切腹を命じたのだった。こうなることを予想しての転封というのが通説であり、辞典類にまでその見解が記されている。

この時、利家はすでに権少将に任じられ、豊臣政権の重鎮となっていた。成政が切腹した年には、後陽成天皇の行幸に際し、秀吉の牛車にしたがうという栄誉まで得ている。晩年、五大老の一人となり、加賀百万石の祖となったのは人も知るところである。

前田利家と佐々成政、まさに光と影ともいうべき運命の転変を見ると、誰しも世の無常を感じずにはいられないだろう。同格だった二人が、ある時点をさかいにその境遇を大きく変えてゆく。現代でもしばしば起こりうることだが、ここに歴史の怖さと面白さを見る思いがするのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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