新着記事

太公望(たいこうぼう)~元祖・軍師の実像をさぐる【中国歴史夜話 8】

太公望(たいこうぼう)~元祖・軍師の実像をさぐる【中国歴史夜話 8】

病気もなく、美しい形状の収穫直前の洗馬のぶどう。

【日本ワイン生産者の肖像8】小山田幸紀さん(ドメーヌ・オヤマダ)|自分の人生や思想をワインに表現、その高い到達点を目指して~その2~

「自分なりの栽培法をみつけるまではチャレンジの連続でした」と語る。

【日本ワイン生産者の肖像8】小山田幸紀さん(ドメーヌ・オヤマダ)|自分の人生や思想をワインに表現、その高い到達点を目指して~その1~

ふとした瞬間に気づく「オバ見え」! 8割以上の女性が「見た目年齢」が気になる!

Google カレンダーがちょっと便利になる使い方【スマホ基本のき 第12回】

御城印発祥の松本城

お城めぐりの記念に「御城印」を集める! はじめての「御城印」ガイド

40代~50代女性1,015人の第二の人生でしたいこととは…?

40代~50代女性1,015人が考える「第二の人生でしたいこと」

食事を楽しみ健康寿命を延ばす、舌のエクササイズ

食事を楽しみ健康寿命を延ばす「舌のエクササイズ」

人情に厚くスジを通した生き方の役『仁義なき戦い』【面白すぎる日本映画 第38回】

人情に厚くスジを通した生き方の役柄が俳優・梅宮辰夫への信望に『仁義なき戦い』【面白すぎる日本映画 第38回】

家事代行件数20,854件の『家事のプロ』が選ぶ、“本当に使える”商品発表!

家事代行件数20,854件の『家事のプロ』だからわかる! 本当に買うべき「料理」「掃除」「整理収納」アイテム9選

通販別冊『大人の逸品』最新号はこちら

LINE公式アカウントでも記事を配信中

友だち追加

お気軽に友達追加してください

サライ本誌最新号(クリックで試し読み)

ピックアップ記事

  1. 『漆椀 ちょもらんま』(中)に、ごはんが盛られた様子(写真左)。『漆椀 ちょもらんま』(小)では、「讃岐オリーブ牛」と松茸の料理(写真右)が饗された。後方の小皿は、ガラス工芸家・藤田喬平さんの「手吹ヴェニス小皿」。写真提供/日本博事務局
  2. MAZDA CX-30は愛されるためにデザインされたとも言える。
  3. 鴨鍋

>>過去の記事へ

サライの通販

>>過去の記事へ

サライ7月号付録「筋トレチューブ」トレーニング動画公開中!

趣味・教養

戦国の光と影~前田利家のライバル・佐々成政の悲話【にっぽん歴史夜話6】

 文/砂原浩太朗(小説家)

武田信玄と上杉謙信、宮本武蔵と佐々木小次郎など、歴史上には無数のライバル関係が存在する。加賀百万石の祖・前田利家(1537?~1599)と佐々成政(さっさ・なりまさ ?~1588)もそのひとつ。とくにこの二人の場合、ともに織田信長の家臣としてスタートし、途中までよく似た経歴をたどっているだけに、後半生の明暗がくっきりと際立つのである。利家と対比しながら、佐々成政、悲運の生涯を追ってみたい。

そっくりな出世コース

佐々家はもと尾張の土豪で、父の代から織田家へ仕えるようになった。成政の生年には諸説あるが、有力なのは天文5(1536)年説と同8年説である。いっぽう、利家には天文6(1537)年説と7年説があるから、いずれにせよ同世代といえよう。二人とも信長の小姓として召しだされているが、出仕は成政のほうが2年はやい。あるいは先輩として利家に接していたかもしれない。

弘治2(1556)年、信長が弟・信行とあらそった稲生(いのう)の戦いで、利家と成政はともに敵将を討ち取り名を挙げた。齢も近い若武者同士、はげしい対抗心を燃やしただろうことは容易に想像がつく。主君・信長も意図して競わせようとしたのか、二人はひとつがいのように出世してゆく。

例えば永禄11(1568)年、利家は母衣衆(ほろしゅう)に任じられた。これは戦時に信長のそば近くひかえ、各隊へ君命を伝える伝令将校である。母衣とは布のなかに竹や鯨骨を入れてふくらませた目印で、これを背に負って駆けるさまは、まさにいくさ場の華であった。これに二隊あり、利家が赤い布の赤母衣衆筆頭、成政は黒母衣衆筆頭だった。

また、有名な長篠の戦い(1575)では、いくさの要である鉄炮隊の指揮をそろって任せられ武田の騎馬隊を殲滅、織田・徳川連合軍を勝利に導いている。そして同年、越前(福井県)の一向一揆を掃討した信長は府中10万石を三等分し、利家と成政、不破光治に与えた。北ノ庄の柴田勝家を助け、越前を統治する役目である。二人がここまで、ほぼ同じ出世コースを歩んできたことが、お分かりいただけるだろう。

成政は武士らしく、剛直な人物だったらしい。信長が浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、その髑髏に金泥を塗って盃としたとき、家中で成政だけが主君の振る舞いを不善として諫めた。信長はかえって引き出物を与えたそうだから、成政の人柄を愛でていたのだろう。また、ひとかどの士を召し抱えるときは約束した以上の禄を与えるのがつねで、そのため腕に覚えの者はこぞって成政のもとへ参じたという。どちらのエピソードからも、豪気あふれる武人の姿が立ちのぼってくる。が、その後半生を見ると、時流をつかむ能力には欠けていたように思えてならない。

伝説のさらさら越え

信長の死後、利家と成政の運命は大きくへだたってゆく。

【次ページに続きます】

ページ:

1

2

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

関連記事

  1. 江戸城・松の大廊下跡 「吉良上野介」は悪人だったのか~「忠臣蔵」敵役の真実【にっぽん歴…
  2. 足利尊氏像 「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)とは何か~足利尊氏・直義兄…
  3. 仙石秀久の時代に築かれた小諸城大手門(国重要文化財) 大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男…
  4. 楠木正成像 楠木正成~「忠臣」か「悪党」か【にっぽん歴史夜話21】
  5. 肱(ひじ)川を天然の水堀として築かれた大洲城。四重四階の天守は、平成16年(2004)に再建された 「賤ヶ岳七本槍」から豊臣水軍の中心人物へ|三英傑に仕え「全国転勤…
PAGE TOP