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戦国の光と影~前田利家のライバル・佐々成政の悲話【にっぽん歴史夜話6】

 文/砂原浩太朗(小説家)

武田信玄と上杉謙信、宮本武蔵と佐々木小次郎など、歴史上には無数のライバル関係が存在する。加賀百万石の祖・前田利家(1537?~1599)と佐々成政(さっさ・なりまさ ?~1588)もそのひとつ。とくにこの二人の場合、ともに織田信長の家臣としてスタートし、途中までよく似た経歴をたどっているだけに、後半生の明暗がくっきりと際立つのである。利家と対比しながら、佐々成政、悲運の生涯を追ってみたい。

そっくりな出世コース

佐々家はもと尾張の土豪で、父の代から織田家へ仕えるようになった。成政の生年には諸説あるが、有力なのは天文5(1536)年説と同8年説である。いっぽう、利家には天文6(1537)年説と7年説があるから、いずれにせよ同世代といえよう。二人とも信長の小姓として召しだされているが、出仕は成政のほうが2年はやい。あるいは先輩として利家に接していたかもしれない。

弘治2(1556)年、信長が弟・信行とあらそった稲生(いのう)の戦いで、利家と成政はともに敵将を討ち取り名を挙げた。齢も近い若武者同士、はげしい対抗心を燃やしただろうことは容易に想像がつく。主君・信長も意図して競わせようとしたのか、二人はひとつがいのように出世してゆく。

例えば永禄11(1568)年、利家は母衣衆(ほろしゅう)に任じられた。これは戦時に信長のそば近くひかえ、各隊へ君命を伝える伝令将校である。母衣とは布のなかに竹や鯨骨を入れてふくらませた目印で、これを背に負って駆けるさまは、まさにいくさ場の華であった。これに二隊あり、利家が赤い布の赤母衣衆筆頭、成政は黒母衣衆筆頭だった。

また、有名な長篠の戦い(1575)では、いくさの要である鉄炮隊の指揮をそろって任せられ武田の騎馬隊を殲滅、織田・徳川連合軍を勝利に導いている。そして同年、越前(福井県)の一向一揆を掃討した信長は府中10万石を三等分し、利家と成政、不破光治に与えた。北ノ庄の柴田勝家を助け、越前を統治する役目である。二人がここまで、ほぼ同じ出世コースを歩んできたことが、お分かりいただけるだろう。

成政は武士らしく、剛直な人物だったらしい。信長が浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、その髑髏に金泥を塗って盃としたとき、家中で成政だけが主君の振る舞いを不善として諫めた。信長はかえって引き出物を与えたそうだから、成政の人柄を愛でていたのだろう。また、ひとかどの士を召し抱えるときは約束した以上の禄を与えるのがつねで、そのため腕に覚えの者はこぞって成政のもとへ参じたという。どちらのエピソードからも、豪気あふれる武人の姿が立ちのぼってくる。が、その後半生を見ると、時流をつかむ能力には欠けていたように思えてならない。

伝説のさらさら越え

信長の死後、利家と成政の運命は大きくへだたってゆく。

柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉が激突した賤ヶ岳の戦い(1583)で、柴田方として出陣していた利家は、戦線離脱することによって秀吉へ勝利をもたらした第1回参照。成政はこのとき越(富山県)に封じられていたが、賤ヶ岳へは出陣せず、いくさののち秀吉の麾下となる。一説によると、成政は柴田勝家と不和であったため、出陣を見合わせたという。

賤ヶ岳の翌年、天正12(1584)年4月、信長の遺児・信雄と徳川家康が秀吉といくさに及んだ。小牧・長久手の戦いである。このとき成政は織田・徳川方につき、前田家の支城・末森を攻めたが、利家の機敏な用兵に敗れる第3回参照。一方、信雄が単独で秀吉と和睦してしまったため、家康も和を講じざるを得なくなった。いまだ戦意の高い成政は、いくさの続行を主張すべく、無謀とも思える挙に出る。厳冬の立山連峰を越え、浜松まで家康へ会いに行ったのだ。これを「さらさら越え」と呼び、古来史実か伝説かが議論の的になっているが、家康の近臣・松平家忠の日記に成政の来訪が記されているので、事実と考えていいだろう。

この挿話からも武勇果断の人となりがうかがえるが、決死の説得もむなしく家康も和睦をえらび、孤立した成政は翌年、秀吉に降伏した。

お前は光、俺は影

信雄の乞いによって一命を助けられた成政だが、越中の所領は一郡のみに削られ、残りは利家に与えられた。天正15(1587)年には肥後(熊本県)に転封されたが、ここは国人(土着の武士)の勢力がつよく、統治のむずかしい土地柄である。案の定、一揆が起こり、他の大名たちの力を借りてようやく平定したものの、秀吉は成政の失政として切腹を命じたのだった。こうなることを予想しての転封というのが通説であり、辞典類にまでその見解が記されている。

この時、利家はすでに権少将に任じられ、豊臣政権の重鎮となっていた。成政が切腹した年には、後陽成天皇の行幸に際し、秀吉の牛車にしたがうという栄誉まで得ている。晩年、五大老の一人となり、加賀百万石の祖となったのは人も知るところである。

前田利家と佐々成政、まさに光と影ともいうべき運命の転変を見ると、誰しも世の無常を感じずにはいられないだろう。同格だった二人が、ある時点をさかいにその境遇を大きく変えてゆく。現代でもしばしば起こりうることだが、ここに歴史の怖さと面白さを見る思いがするのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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