家康も大好き!江戸時代に「鷹狩り」が武士の間で流行った3つの理由

文/柿川鮎子

鷹狩りの歴史は古く、日本では西暦355年、仁徳天皇の時代に大陸から鷹が輸入され、朝廷を中心に公家の遊びとして親しまれました。しかし、もっとも盛んになったのは江戸時代です。徳川家康が鷹を独占した後、三代将軍家光と八代将軍吉宗の時代には鷹場を設置し、鷹狩りの法律を定めて幕府自ら管理するようになりました。

では、もともと朝廷の遊びであった鷹狩りが、江戸時代に武士たちの間で盛んになったのはなぜでしょうか? じつは主な理由は3つあります。順番にご紹介しましょう。

■1:鷹狩りが戦の練習として最適だったから

徳川幕府による全国統治で戦乱の時代がひとまず終わり、武士達は戦いの実践を体験できなくなります。とはいえ、武士であるからには万が一の実践に備えて戦闘訓練を積み、戦いの腕を磨いておかねばなりません。

鷹狩りは猟の目的のために少人数を自分の意のまま、素早く動かします。どのように号令を出すか、隊をどのように動かせば最も効率的か。獲物を敵に見立てて戦う実践的な訓練の場でした。

敵の動きを封じるための効率的な配陣は何か、地形や地面の状態を見ながら瞬時に判断を下すのはとても難しく、鷹狩りは戦いのシミュレーションとして役立っていました。

■2:鷹狩りと称して領地視察を行ったから

もうひとつ重要だったのが領地視察です。組織が巨大化すると、現場の実態がつかみにくくなるのはいつの時代も同じこと。武士たちにとっては、鷹狩りと称しながら領地を視察することで、その実態把握が可能になったのです。

とはいえ、将軍家が鷹狩りをする場所は決まっていて、鳥見番と呼ばれる役人が鷹狩りに関する管理監督を厳重に行ったため、徳川将軍にとって鷹狩りをしながらの領地視察は難しかったようです。

ちなみにこの鳥見番、普段はあまり活躍の場がない役目だったせいか、鷹狩りとなると大声で狩り場から人を追い払うため、人々から嫌われていたとのこと。

■3:健康維持に役立ったから

徳川家康は、鷹狩りが健康維持のためにも役に立つと考えていました。将軍家の公式な記録である『徳川実紀』によると、

「鷹狩は遊娯の為のみにあらず(中略)山野を奔駆(ほんく)し、身体を労働して、兼(かね)て軍務を調達し給は(たまわ)んとの盛慮(せいりょ)にて」

と書かれています。山野を駆け回って運動することが健康維持に役立つと考えた家康は、鷹狩りに励み、生涯で千回以上もの鷹狩りをしました。

家康は人質であった今川時代にも、鷹狩りを好んで行っていました。今川の家臣・孕石元泰(はらみいし・もとやす)は、家康の鷹が元泰の屋敷内に迷い込んだ時、「人質の分際で鷹狩りとは生意気な」と嫌みを言います。家康はそれを長い間恨んで、後年、高天神城の戦いで人質となった元泰に切腹を言い渡します。大好きな鷹狩りを咎められたのがよほど気にいらなかったのでしょうか。

家康が井伊虎松と会ったのも鷹狩りの最中だったと新井白石の藩翰譜に記されています。

家康は天下統一を成し遂げた後、鷹狩りに使う鷹の売買を禁止しました。鷹はすべて徳川の独占となり、鷹狩りは権威の象徴となりました。以降、明治時代に入っても天皇家に美しい鷹が奉献される様子が描かれています。

以上、今回は江戸時代に武士たちの間で盛んになった理由についてお伝えしました。

ちなみに海外では現在でも、鷹狩りはステータスの高い趣味で、中東では王族の高貴な遊びとして外交にも役立っています。アブダビとトバイには鷹専門の動物病院まであるんですよ。

文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。

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