夏目漱石、障子の張り替えを手伝った門弟にバイト代を奮発する。【日めくり漱石/12月29日】

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今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)12月29日、39歳の漱石は、朝から門下の鈴木三重吉と小宮豊隆を自宅に迎え入れていた。ふたりの門弟は障子の張り替えを手伝いにきているのだった。

昔の日本家屋は至るところに障子がある。作業はまる1日かかった。漱石はそれぞれに、手間賃として5円の小遣いを奮発した。

石川啄木の東京朝日新聞における初任給が25円、島崎藤村の小諸義塾での月給が30円、正岡子規の日本新聞社での月給が40円。洋行帰りのエリート英文学者の漱石にしても、東京帝国大学講師としての年俸は800 円だから、月割りにすると65円余。

このように、明治期の文人たちのサラリーマンとしての給与を並べてみると、5円というアルバイト賃がいかに割のいいものだったかがわかる。三重吉も豊隆も、当時は東京帝国大学に通う一介の学生である。

この2日前、漱石は一家して、本郷区千駄木(現・文京区千駄木)から本郷区西片町(現・文京区西片)へ引っ越しをしていた。千駄木の家の本来の持ち主で、漱石の学生時代からの友人でもある斎藤阿具が、赴任先の仙台から東京へ戻ってくるため、急ぎの転居だった。

三重吉や豊隆は、他の門弟ともども、この引っ越し準備や引っ越し作業、引っ越し後の片づけ作業なども手伝っていた。漱石とすれば、それもひっくるめての「ご苦労さん」というお礼の気持ちで奮発したのだろう。

ところが、ふたりの門弟は、これに味をしめてしまった。その後、小遣いに窮すると、夏目家へやってきては、

「先生、障子を張らしてください」

「奥さん、障子を張り替えましょうか」

と言い出す始末だった。

あまり度重なってくるので、そうそう障子ばかり張っていられるか、と押し返していると、そのうち豊隆は作戦を変え、「僕に2円くださいませんか」と、真っ向からのおねだり。何に使うのかと問われ、豊隆はすまし顔で下駄を買うと答える。漱石は、

「なんだ、学生の分際で。15銭の麻裏草履でたくさんだ」

とやっつける。が、どこか殿様然とした豊隆はこれを聞き流し、甘え上手を発揮。とうとう鏡子夫人から2円を引き出して下駄を買い、自慢げに履いていた。夏目家の玄関に置かれていても、おのずと目を引く「小宮の2円の下駄」は、門弟たちや漱石のもとに出入りする人々の間では、ちょっと有名な存在となった。

そんな小宮豊隆の下駄を眺める漱石先生の胸の内、かつての子規庵(正岡子規の自宅)訪問時、すでに主が寝たきりとなっていたため、玄関に男ものの下駄のなかった寂しい光景が、ふとよぎる瞬間もあっただろうか。

■今日の漱石「心の言葉」
女性の影響というものは実に莫大なものだ(『吾輩は猫である』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
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神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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