今から121 年前の今日、すなわち明治28年(1895)12月28日、28歳の漱石は東京・虎の門にある貴族院書記官長の官舎を訪れていた。
西洋館と日本館の両方があって、当時としては先進的に電燈と電話もついたその官舎には、主の中根重一とその夫人、長女の鏡子を筆頭とする6人の兄弟姉妹、そして書生3人と家政婦3人、さらにお抱えの俥夫までが住んでいた。
この頃、松山で中学校教師をつとめている漱石は、冬休みを利用して帰省していた。この館に足を運んだのは、中根鏡子と見合いをするためであった。付き添いもなしに、ひとりでひょっこりと足を運んだ漱石は、洋館2階の20畳敷きの、ストーブのある部屋に通された。普段は中根重一が書斎として使っているその部屋で、漱石は初めて鏡子と対面したのだった。
鏡子は漱石より10歳年下の18歳。初めての見合いで、本人としては恥じらいから俯(うつむ)き加減に漱石の顔をちらりちらりと見ている心地。鏡子は漱石のお見合い写真を見たときから、いままで見た他の人のお見合い写真と比較しても、上品でゆったりしていて、いかにも穏やかなしっかりした顔立ちで、好もしく感じていた。
お見合いには鏡子の両親が同席し、鏡子の妹の時子が給仕役を買って出た。この時、女たちの視線は、自然と漱石の鼻の頭にいく。そこにアバタがあるとかないとかいう話が、仲人を通して伝わってきていたためだった。
このお見合いで、漱石も鏡子もお互いに好印象を深めた。漱石は、歯並びが悪いくせにそれを強いて隠そうともせず平気で笑っている鏡子の気取りのない姿が、気に入った。鏡子の目には、鼻のアバタとともに、漱石が引物の大きな鯛の塩焼きの横腹に、ひと箸だけぽっくりと穴を空けた光景が、不思議とあざやかに焼きついていた。
漱石を玄関から送り出すと、おきゃんな時子が鏡子に言った。
「ねえ、ちょいと、お姉さん、夏目さんの鼻のあたま、横から見ても縦から見てもでこぼこしてるのね。あれ、確かにアバタじゃない」
「そう、私もそう思ったわ」
鏡子が相槌を打ち、母親もほっと解放された気分で同調する。そこへ、中根重一が一家の主らしく叱責を与える。
「そんなこというもんじゃない」
一方の漱石は、残った鯛を折り詰めにして実家に持ち帰った。その蓋を空けた兄の直矩が、漱石に問う。
「これはどうしたんだ?」
「ひと口食べたんだけど、あんまり大きいから止めにしたんだ」
「バカ。引物に箸をつけるやつがあるもんか。嫁さんに嫌われるぞ」
漱石、鏡子ともに、身内から叱られるお見合いとなった。
年明けの3日には、漱石は中根家の新年会に招かれ、皆で歌留多とりや福引をした。漱石は歌留多とりが下手で周囲を喜ばせたが、とりわけ重一はご機嫌で、漱石が帰った後、
「今どきの若い者は遊ぶことばかり上手でなんにも役に立たないが、ああいうふうに不器用なほうが学者としては望ましい」
と褒めちぎった。
ふたりの結婚は、この半年後である。
■今日の漱石「心の言葉」
愛は愛せらるる資格ありとの自信に基づいて起こる(『虞美人草』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
